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不器用な恋の終わりに(1)



 
 不器用な恋の終わりに
 
 日下部邦夫は、嫌な奴だった。

 「傲慢」という言葉を絵に書いたような男だった、と言えばいいのかもしれない。成績はきわめて優秀なのだが、それに反比例するかのように性格も悪く、人を小馬鹿にしたような見下した態度に出るところも、好きになれない。共通の知人に聞いてみたところでも、その評価に変わりはなかった。とにかく、日下部邦夫という男は、そういう嫌な奴だったのだ。

 どこかに走っていく救急車のサイレンが近づいてきて、また遠ざかっていく。秋人は頭のどこかでその残響を負いながら、そっと息を吐き出した。沈黙。じっとりと湿った空気の中には、教科書の本文をそのまま読み上げる教師の声だけが、響いている。かつかつというチョークの音とともに、黒板が白い文字で埋め尽くされていく。秋人はのろのろとノートを取り出して、条件反射のように黒板の文字を写しはじめた。

 ――夏美は、何でまだあんな奴と付き合っているんだろう。

 秋人はそろそろと息を吐き出した。文字を写すという単純作業は、人の思考をいともたやすく別のところに飛ばしてしまえるものらしい。秋人は板書を写す手を休めて、窓の淵に頬杖をついた。教師のおもしろくもない話に付き合って、せっせとノートを汚すような気にはなれずに、秋人は窓の向こうに小さく見えている一年生の教室へと視線を逃がした。五月の風が木々を揺らして、まぶしそうな光の中に、二匹の鳥が飛び立っていった。

 日下部邦夫の取り柄といえば、いったい何が挙げられるのだろうか。

 中庭の景色を眺めながらも、秋人の思考は再びそこに戻っていた。日下部邦男は夏美が今まで付き合ってきた男の中でも、上から二番目くらいに身長が高く、ルックスは人並みか、まあ見ようによっては悪くもないという判断が下せる程度。中学の三年間をテニスに費やして、それなりの成績も残していたという。

 そこまで考えて、急に秋人は馬鹿馬鹿しくなった。やめたやめた、こんなこと。どうして俺が夏美なんかのために、こんな思いをしなくちゃならないんだ?秋人はばさりとノートを閉じた。消しくずが風に飛んで、ざまあみろ、と秋人は思った。けれど次の瞬間にはもう、そう思ったことがとても惨めなことのように思えてきて、秋人は今度こそ何も考えないように、机に突っ伏して目を閉じた。

 ――日下部君が二股をかけてるみたいなの。

 そう言ったときの夏美の顔が秋人の中に浮かんでいた。なんだよ、しつこい奴。そう思っては見たけれど、完全にそれを自分の中から払拭することもできなかった。

 ――そんなこと、いちいち俺に報告するなって。

 その時秋人は、ちょっと笑ってそんなことを言ったのだ。けれど、夏美は笑わなかった。にこりともせずに、真正面から秋人のことをじっと見ていた。睨みつけていた、というほうが正しいのかもしれない。情け容赦のない、睨み方だった。

 ――・・・なんだよ。
 ――ねぇ、それって本気で言ってるの?
 ――何が?
 ――・・・もういいよ。
 
 秋人は、あきれた。夏美は気まぐれな猫のように、いとも簡単にくるりと身を翻し、すたすた歩いていってしまった。ああ、そうだ。秋人は、思い出していた。あの日も、あの空には綿飴みたいに軽そうな雲があちらこちらにぷかぷか浮かんでいて、季節は確かもうすぐ秋で、その空の下を、夏美と秋人で一緒に歩いていたのだった。

 ――浮気調査、して。

 もう一度振り返った夏美の唇が確かにそう動くのを、秋人は聞いた。もううんざりだと思っていた。夏の終わりのどこか投げやりなセミの声が、それでも間断なく大空から降ってきて、さらにその気持ちの拍車をかけた。

 口からこぼれ出たため息は、夏美のもとへと届くよりも先に、セミの声にかき消される。

 ――幼馴染じゃん、あたしたち。
 ――・・・何を今さら。

 秋人は、立ち止まった。近くにある小学校から、子どもたちの歓声が聞こえてきた。二人の影を、永遠の夏のメロディーが、焼き付ける。そんな夏だった。秋人は、どこか懐かしいような、それでいて少し悲しい気持ちになった。昔、多分まだそう遠くもないころに、こんな風にして二人で歩いたことがあったのかもしれない、そう思った。

 ――・・・なんでもない。

 夏美は少し怒った表情で、秋人のことを見上げていた。まただ。そう思って、秋人はそっと夏美から目を逸らした。諦めにも似た感情が、秋人の中を支配していた。夏美の責めるような視線にももう慣れてしまったけれど、何も、何も言い返せそうにない。だから、自分が情けないような、不甲斐ないような。幼馴染なんて、ただそんな役回りだ、とそう思った。

 秋人ってば、何も言ってくれないもんね。

 夏美の言葉が蘇った。いったい夏美は、何を言ってほしかったのだろうか。今さら、今さら秋人が何かを言ったところで、何も変わることなんてないということを、夏美もちゃんと承知しているはずなのに。悩んだ末に、秋人は落ち着きなく言葉を捜して、けれども上手い言葉も見つからず、結局思いを飲み込んでしまうのだ。今さらだった。もう、いろんなことが手遅れで、足掻いてももがいてもいらいらばかりが募るばかりで、いろいろともう無理なのだ。

 こんなときに、秋人はよく並んだ歯車を思い浮かべる。がっちりと縦横斜めを固められ、さびて動けなくなった歯車だ。自分はきっとその歯車たちの端のほうに位置していて、動くに動けなくなった部品の中の一部なのだ、と秋人は思う。しかも他の部品たちが少しでも動こうと必死に手足をばたつかせているのに対し、自分ひとりだけが冷静で、もうどうせ動かないのだなんて勝手に諦めてしまっているような、そんな部品だ。秋人は思う。もとより歯車を動かす力など自分にはなく、神さまから振り分けられた役付けにも、きっと自分の名前はないのだろう。「運命」などという立派で月並みな言葉を借りなくとも、秋人にはそれがわかっていた。

 その歯車の中心部分に、いつも秋人は夏美のことを思い描く。そのことが、他の何よりも雄弁に二人の間の隔たりを物語っている。

 ――秋人はさぁ・・・

 夏美の呟きが、風に溶けた。その言葉の続きを秋人は知らない。知りたくもない、と思っている。

 チャイムが鳴った。教師が授業の終わりを告げて、がたがたとイスが忙しそうに音を鳴らした。

 夏美が、前の席の男子生徒に話しかけられて、おかしそうに笑っている。

 それを見ていたら、少しだけほんの少しだけ、きりの先でつつかれたようなかすかな痛みに、胸の奥がずきりと痛んだ。


     続く

by sinsekaiheto | 2007-08-09 22:00 | 小説