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不器用な恋の終わりに(4)


 続き・・・(前々回の更新からの続きです)




 いくつも、いくつも夢を見た。

 短い夢だ。小さい頃の自分がいて、秋人がいて、雨が降っていて。二人は、ボールを追いかけながら、遊んでいる。短い夢だ、けれどどこか懐かしい夢だ。

 永遠に、この夢から覚めなければいい、と思っていた。頭の、どこか醒めている部分が、絶えずそういう信号を体の中に送り続けているかのように、夏美の身体はどこか落ちつかず、それを愉しんでいるような自分もまた、体のどこかにいるのだった。

 短い夢は唐突に終わり、目を覚まして気がついてみると、やはりベッドの上で横になっていた。まず初めにやけに清潔そうな白い天井が目に入り、その後に消毒液のにおいが鼻についた。助かったのか、と思った。夏美は、軽く息を吐き出した。

 昨日の雨が晴れて、窓ガラスの向こうには憎たらしいほどの晴天が広がっている。ベッドの上に身を起こしたら、その途端に全身を針で突き刺されたような鋭い痛みに、息がつまった。顔が歪んだ。浅い息を吐いて、目を閉じ、ベッドの端にもたれかかった。全身が痛い。痛くないところを探すほうが難しいかもと思えてしまうくらいに、痛い。ただ、頭だけは正常で、絶えず自分と自分を取り巻く環境とに呪詛の言葉を吐き続けていた。これも、夢の続きか、何かだったのならよかったのに、と。

 目を開いて、改めてあたりを見渡してみると、夏美のほかにベッドに寄りかかるもう一人の少女の姿があった。その少女は夏美と目が合うと、にこりと愛嬌のある笑みを浮かべた。夏美も、おずおずと笑顔を返す。知らない娘だ。年は夏美と同じか、それよりも少し幼いくらい。可愛い子だった。けれど、その愛嬌のある微笑みにどこか物憂げな色が混ざりこんでいて、その少女は今にも消えてしまいそうな感じに、淡く頼りなく見えていた。

「気がついた?」

 その少女は、夏美のほうをむいて、そう尋ねた。夏美は「ああ」とか「うん」とか曖昧な言葉しか、返すことができなかった。この子、誰なんだろう、と夏美は思った。頭に巻いた包帯以外は、彼女が病人だということを示すものはなく、「気付いたらベッドの上で眠っていたの」と言っても「ああ」と納得させてしまいそうな、そんな雰囲気を彼女は持っていた。夏美の目には、そのくらい彼女がこの部屋の空気に馴染んでいないように、感じられたのだ。

「事故にあったって聞いたけど、怪我とか、大丈夫?」

 彼女がじっと、夏美のことを見つめていた。夏美は、何も考えずに、首だけを縦に動かした。頭までががんがんと痛み出してきて、まったく何かを考えるという行為そのものが、馬鹿馬鹿しく思えてきた。

「そっか。よかった。あ、ねぇ、名前はなんていうの?」
「・・・夏美」

 それだけ答えると、夏美は目を閉じて、ずるずるとベッドの中に沈みこんでいった。きっと疲れているに違いないのだ、と夏美は思った。人生なんて思い通りに行かないことの連続で、少しばかり努力したって、何も変わらないことばかりだから、目を閉じて何もかもを投げ出したいと思う事だって、あるのだ。だから、私は今、疲れているとそう思う。

「夏美か、いい名前だね」

 そんな月並みな言葉を期待していたわけでは、もちろんなかった。そんな言葉を簡単に口に出してしまえるその少女に、わけのわからない、嫉妬と嫌悪の入り混じった醜い感情を、抱いていた。だから、夏美は何も答えない。ベッドの中で、夏美はいつまでも意固地な沈黙を、保っていた。

――暫く、一人にさして、くれないかな・・・

 その言葉を誰に言えばいいのか、夏美にはわかっていなかった。いや、その言葉通り、本当に一人になりたいのかすらも、夏美にはわかっていなかった。ベッドの中に横になったまではよかったけれど、その言葉の持つ甘美な響きが、多分夏美を今よりもっと雁字搦めにしてしまうから。吐き出せない言葉が山のように心の奥を占めているというのに、一向に前に出てきてくれず、困ってしまった。夏美はぼんやりと天井を見つめた。思わず、泣き出したくなってしまった。メランコリーなんて、あたしには全然似合わないって知っているのに。それでも、自分の心の中のもやもやを、夏美はどうすることもできないのだ。

「ねぇ、あたし、どっか別のところに行っておいたほうか、いいかな?」
「え、なんで?」
「なんとなく、一人にさせてほしそうだったから」

 夏美は驚いて、身体を起こした。少女の顔をまじまじと見る。まるで心の中を覗かれてしまったような気恥ずかしさを、夏美は感じた。少女は少し、ほんの少しだけどこか寂しそうな笑顔を浮かべて、ベッドからでた。「あ」と夏美は声を出した。何か言わなくては、と思ったのに何を伝えていいのかわからずに、結局、

「いてよ。・・・ここに、いて」

 切れ切れになったその想いだけが、言葉になった。そんな物憂げな、そしてどこか切ない横顔を見せられたなら、多分誰だって私と同じような気持ちになるに違いないのだ。彼女はきっと私なんかより数倍傷ついていて、苦しんでいるのだ、と夏美は思った。少女のその物憂げな表情の中に、彼女が抱えている悲しみや苦しみを垣間見たような気がして、夏美は暗澹たる気分になった。夏美同様、きっと彼女も心の中に暗い虚空を持て余しているのだ、と夏美は思う。自分では決してどうすることもできない種類の、強い心の暗闇を。

 少女は、暫く黙って夏見の姿を眺めていた。夏見は少女の視線から、目を逸らした。心の中がずきりと痛んだ。わけもわからずに苦しくなって、また頭の中ががんがんと痛みはじんた。彼女は、もしかしたら、私に助けを求めているのかもしれない、と突然そんな突飛な考えが頭に浮かんだ。私には無理だ、とそう思った。ふーと息を吐き出したら、何か切ない気持ちになった。今であったばかりの少女にそんなことを思うだなんて、なんか変だ。やっぱり私は疲れているのだ。

「どうしたの?」
「え、何が?」
「だって、今なんかすごく悲しそうな顔してたから」
「・・・そうかな」

 夏美は、曖昧な笑みを顔に乗っけた。自分が何に対して苦しみ、悲しんでいるのかということが、夏美にはまるでわからなかったから、曖昧な笑みを浮かべてお茶を濁すしか、なかったのだ。

 夏美は過ぎ去った日々のことについて、考えている。

 それは時に強迫観念か何かのように、夏美の心を支配しては、絶えず彼女をぐらぐらと揺さぶっていく。そんな時夏美は自分の頭の中で蘇る懐かしい思い出たちの中に、溺れてゆく。自分が何か、言葉では言い表せない大切なものを失いかけているのではないか、と不安になる。あるいは、夏美はもう既にその何かを失ってしまっているのかもしれなかった。出会いと別れを、嫌というほど繰り返した。今はもう、会いたくてもあえなくなった人も、たくさんいる。そんな苦い後悔にも似た感情を山ほどつんで、夏美はここまで来たのだった。

「何か最近、眠るのが恐くてさ」
「え?・・・なんで?」
 
 少女が驚きの表情を浮かべている。夏美は静かに首を振った。「・・・いや、やっぱいいや、なんでもない」夏美は、息を吐き出した。少女は不安そうな目で、夏美のことを見つめていた。いや、なんでもないなんて、ただの嘘だ。そんなことぐらい、少女も簡単に見破ったろう。最近、夜眠るのが恐くなった。だから、少しずつ夜がやってくることさえも、恐い。目覚めたら、自分が自分ではなくなっていて、何で考えるだけでも恐いから、眠りに落ちた後、夢の世界の中でさえも、朝が来るのがとても恐い。

「夜は、ちゃんと眠ったほうがいいよ」

 少女が言った。そんな言葉が返ってくるなんて考えもしないことだった。夏美は少女の姿をちらりと見遣った。目が合うと、彼女はどこかに哀愁を漂わせた彼女独特のやり方で、夏美に笑顔を向けていた。ずっと笑っている子だな、と夏美は思う。それも、本当に心の底から笑おうと思ってやっているのではなく、どうして良いのかわからないから、取り敢えず笑っておいたような、そんな笑顔だ。

 何かがおかしい、と夏美は思った。言葉にして言い表すことは困難だけど、何かが、どこかがおかしいのだ。彼女が時折見せるさびしげな表情と、困ったように浮かべる笑顔とが、彼女の輪郭そのものを危うく見せてしまっているような気がした。「どうしたの、大丈夫?」と彼女は尋ねるが、あたしよりよっぽど大丈夫じゃなさそうだ、と夏美は思う。

「ねぇ、何で入院してるの?」

 夏美は尋ねた。夏美は尋ねた。頭に包帯が巻かれている、ということを除けば、彼女は充分健康体に見えたのだ。

「・・・事故にあったんだ」
「事故?」
「そう。どうしようもないくらい、つまんない事故にね」

 彼女は笑った。夏美は少女の中の虚ろにふれたような気になった。そこはあまりにも暗くあまりにも荒涼として、ティーンエイジャーの少女が持つ華やかさとは、あまりにもかけ離れているものに、夏美には思えた。

「夏美ちゃんも、交通事故だったよね」
「あたしは・・・」

 夏美は言葉に詰まって口をつぐんだ。なぜだか秋人の顔が頭の中に浮かんでいた。まだ小学生だった頃の、泣き出す直前のくしゃくしゃに歪んだ顔だった。あの顔に、私は誰よりも弱かったのだ。夏美はそっと目をとじる。どこかで、まだ泣いているのかもしれない、と夏美は思った。あの頃の「泣き虫秋人」はいったい今何をして、何を考えているのだろうか。

 あれから一度だけ、お見舞いに来た。「事故にあったんだって?ドジだな」なんて笑っていたから、あんたのせいだよ、とは死んでも言えないと思ってしまった。そして、そのことを伝えられない自分自身が、あまりにも不器用で、情けなかった。

 目を開いた。病室の窓から見た狭い窓には、茜色の空が広がっている。

「あたし、ジュース買ってくるよ。夏美ちゃんも、何か買ってあげようか?」
「いい、いらない。あんまりのども渇いてないし」

 少女の言葉に夏美は答えた。少女は小さく頷いた。病室を出るときに少女はまた夏美のほうを見た。今度は口を開くことなく、じっと夏美のことを見つめている。夏美は「どうしたの」と彼女に尋ねた。少女は首をふる。「なんでもない」という答えが返ってくる。

「ただ、ちょっとね。昔のことを、思い出してね」

 そう呟くと少女ははっとなって口をつぐんだ。それ以上、彼女は何も語らなかった。夏美も、会えてその先を尋ねることはしなかった。今はまだ、この少女の中の思い虚ろに触れたくない、と思っていた。

「じゃあ、行ってくるね」

 少女はそういって、病室を出た。夏美はベッドの中にずるずると引きずり込まれていった。窓の外に広がる赤は、いつの間にやら黒色を孕んで、不穏な情景をかもし出していた。夏美は目を閉じた。もし、神さまというものがこの世界にいるのだとしたら、何も考えることのない安らかな眠りを彼らがもたらしてくれればいい、と夏美は祈った。


続く

by sinsekaiheto | 2007-08-26 07:07