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不器用な恋の終わりに(5)

 
 続き・・・



  あの日も、そういえば雨が降っていた。

 その日は朝から体調があまり良くなくて、友人が言うところの「髪のように白い顔」を引きずりながら、夏美は薄暗い校舎の中を歩いていた。もう半分ほどがたの来た中学の校舎は、露のせいか至る所で露点に達して、コンクリートの壁を鈍く汚く光らせている。夏美は友達に言われるままに部活動を早めに切り上げて、二回の廊下をとぼとぼと歩いていたのだった。

 空気はじっとりと湿り気をおび、どす黒い空からは慌しく雨粒たちがふり落ちてくる。夏見はふと立ち止まり、暫くそこで窓の外を眺めてから、またもときた道に引き返した。傘を忘れていたことに、気がついたのだ。

 二年五組の教室は四階建ての校舎の最上階に位置している。四時半をまわり、雨の日の薄暗さも手伝って、放課後の校舎は、例えばそれ自体がじっくりしっとりと呼吸しているかのように、どこか独特の雰囲気を醸し出していた。夏美は傘たての中から自分の傘を引き抜いた。早いところ帰ろう、雨がこれ以上ひどくなる前に、帰って布団をかぶって眠ってしまおう。夏美はそう思ったけれど、扉の前を通り過ぎようとしたときに、足がはたっと止まってしまった。少しだけ開いた教室の扉から中の光が洩れ出ていて、そこから人の声が聞こえたのだ。

「秋人、麻美の告白断ったんだって?」
「・・・ああ、うん」

 秋人がいる。彼の声が聞こえてきた。夏見はそっと教室の中を覗き見た。秋人の周りに三人の男子たちがいて、暇つぶしなのかなんなのか、十円玉を机の上に広げ、それを指で弾いて遊んでいた。夏美は、何だか後ろめたい気分になった。こんなときに、こんなところで、こんな場面に出くわすなんて。一瞬の逡巡。多分、全部雨のせいだ、と夏美は思った。盗み聞きなんていけないことだと知りつつも、全てを雨のせいにして、結局暫く彼らの会話に聞き耳を立てていたのだった。

「何でなんで?何で断っちゃったの?彼女、けっこう可愛いじゃん」
「別に・・・、何でって言われてもなぁ」
「なにそれー」
「っていうか、秋人の好みってどうよ」
「駄目だよ~、二人とも。秋人にはちゃんと、梶谷夏美っていう想い人がいるんだから。な、秋人」
「ば、そんなんじゃねぇよ」
「う、そだー」
「違うって。あんな生意気でぶすで可愛げのない奴なんて、全然好きでもなんでもない」

 その言葉は、鋭利なナイフか何かのように、夏美の心に突き刺さった。

 一瞬の沈黙を、夏美の手からずべり落ちた傘の柄が劈いていった。ガターン、と盛大な音が響いた。

「へ?誰?」
「夏美・・・?」

 秋人の声。しまった、と思うよりも先に、頭の中が真っ白になった。夏美は、落ちた傘を拾って、一目散に駆け出した。階段を一段飛ばしで駆け下りて、下足室へ出たところで、夏美はパタリと走るのをやめた。頭ががんがん響いて、馬鹿みたいだ、と夏美は思った。どうして、逃げるようなまねをしてしまったのだろう。こっちからだって、思う存分あることないこと、言ってやればよかったというのに。夏美は四角く並んだロッカーにもたれかかった。雨なんて嫌いだ、そう思いながら、のろのろと靴を履き替えた。

 彼らが追いかけてくるはずもないと知りながらも、夏美はちらちらと階段の向こうに視線が行くのをとめることができなかった。こんなことなら、走って逃げなくたって、よかったのだ。ただ格好が悪いだけで、心の中の大切な場所に救いようのない空洞ができたような、心許ない心地がした。夏美は無性にやるせない気分で、だらだら歩いて玄関に出た。ああ、雨が降っている。しとしと、まるで世界を塗りつぶし、覆いかぶさってしまおうとでもするかのように。夏美は灰色の空を見上げた。傘をさすことも忘れて、歩き始めた。

――あんな生意気で、ぶすで可愛げのない奴なんか、全然、好きでも何でもない

 たぼたぼ歩く夏美の髪の毛と両肩を生ぬるい雨が容赦なくぐっしょりと湿らせた。怒りや憎しみといった感情は不思議なくらい沸いてこなかった。ただ、こんな雨の日にこんな気分で、こんなところを歩いているということそれ自体が、なぜだが無性に情けなかった。夏美は振り返る。いつの間にか、もう随分と遠くへ行ってしまった校舎が見えた。冷たい雨。このまま、私が溶けて、消えて、無くなってしまうまで降り続けば良い。そう思った。




 あれから五年もの月日がたった。

 時々、夏見のことを見る秋人のひとみに憂苦の色が浮かぶのを、夏見は見る。それは夏美を責めているようであり、許しを請うているようにも、夏美には見える。それでも、どうしろというのだ、と夏美は思う。もし秋人がもっと直接に、夏美のことを叱ったり、罵ったりしてくれれば、それだけで随分夏美は楽になることができただろうに。夏美は、そのことについて考えるたびに「むなしい仮定だ」と脱力感で一杯になる。そんなことができるのであれば、秋人だってとっくの昔にやっているはずなのだから。それをするには秋人は少しばかり不器用で、夏美には少しばかり、素直さがかけているのであった。

 ああ、いったい私は今まで何をやってきたのだろう、とベッドの上で仰向けのまま、夏美はいつもの問いを繰り返した。今更、自分の気持ちにやっと気付けたところで、もう何もかもが遅いのだ。わけもわからぬ嫉妬に駆られ、祥子と秋人の仲を割き、好きでもなんでもない男の子たちと付き合った。別に自暴自棄になったわけでも、秋人の苦しむ顔が見たかったわけでも、ないと思う。でも、そうすることで何かが劇的に変化してくれるのだ、と愚かしくも信じている自分どこかに生息していて、それをやめさせてはくれないのだった。そんな風にして過ごした日々は、孤独と後悔と、自己嫌悪ばかりが連なった、何とも辛いものだった。夏美は泣いた。どうにも月明りが眩しくて、ケイタイもメールも繋がらない孤独な夜には、ベランダの窓を閉め切って、階下に泣き声が洩れないように、声を押し殺して静かにないた。そんなときでも、ベランダ越しに柔らかい光が秋人の部屋から洩れているから、それがどうしてもいけないのだ。

 どうして、人は人を好きになったりするのだろうか。どうして私は、嫉妬心などという醜い感情を持ったまま、生まれてきてしまったのだろうか。病室のベッドの上で寝転がり、うだうだとそんなことを考え続けている夏美の目には、遠く、窓の向こうの青空が映っている。ああ、あのころに戻りたい、と夏美は思った。どうやったって、もう元には戻れないことぐらい夏美にだってわかっていることなのに、それでもそう考えずに入られなかった。ああ、あのころに戻りたい。突き抜けるような夏空の下を、泥にまみれて転げまわっていた、あの頃に。

――だって、全部アキのせいじゃん

 そう心の中で呟いてみて、その言葉の響きがあまりにも情けなかったから、思わず呆れた。そうやって自分をごまかしたところで、結局は何も変わらないのだと気付いてしまって、ため息が洩れた。手を伸ばしたって、届くはずもないものなのだ。最初から諦めておけば、手を伸ばさなかったら。

 そう考えて、泣きたくなった。こんなことなら初めから、悪足掻きなんてしなきゃよかったんだ、とそう思った。

続く

by sinsekaiheto | 2007-08-29 17:39