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不器用な恋の終わりに(6)


 続き・・・

 
「記憶が?」

 少女は呟いた。

「そう。記憶が、ないの」

 夏美は驚いて、彼女の顔をまじまじと見つめていた。

「目が覚めると真っ白だった。自分の名前も、家族の名前も何も思い出せなくて、必死に何かを思い出そうとしたら、頭の奥がズキズキいたんで、それ以上、なにも考えられなかったの。
 暫くしてから、私と同じ顔の女の子がやってきて、言ったの。あなたの名前は、瑞希だ、って。彼女は、私の双子の妹だった」

 少女は夏美のベッドの上に腰掛けていた。頭に巻いた包帯も取れて、明日で退院、というときだった。

「どうして?」
「え?」
「なんで、記憶喪失なんかに、なったの?」

 尋ねてみてから、そう尋ねることのおろかさに、はっと気付いた。

「さぁ、交通事故にあった、て聞かされたけど、ホントのところ、それも全然覚えてないんだよね」

 彼女はいつもの彼女自身のやり方で、つかみ所のないふわりとした微笑を浮かべていた。それは多分、彼女の中には救いようのない虚無感が横たわっていて、それを彼女自身持て余していることの証拠か何かのように、夏美は思った。

 記憶がない、というのはいったいどのような感じなのだろう、と窓の外ばかり見て、随分と小さくなってしまった少女の背中をぼんやり眺めて、夏美は思った。この子は、こんなにも美しいというのに、こんなにも儚げで、こんなにも傷ついているのだ。ずるいと思った。少しくらい、その傷のうちの一つくらいなら、分けてくれても良いではないか、と。そうしたら、私だって、ちょっとくらいは綺麗に見える筈なのに。

 何を考えているのだろうか、私は。人の不幸をうらやましく思っているだなんて。夏美は呆れた。不幸なら、私一人でもう充分にもてあましているというのに。

「時々、お見舞いに来てくれる男の子がいてね。その子はね、私が前までの瑞希じゃないって事を知って、苦しそうな顔してた。自分と、私との思い出を必死で話してくれたけど、一つも、私の心の中に響いてくるものは、なかった。
 私にはね、心がないの。ここの、この辺にぽっかりと大きい穴が開いてるみたいに。思い出と一緒に、自分の心もなくしちゃったんだ」
 
 ここ、と呟いて、彼女は自分の胸の辺りを指差した。

「本当はあるはずなんだよ。お母さんの子守唄、とか抱っこされたときの感覚とか。でも思い出せないの。私はお母さんと手をつないだこともなかったのかな。お父さんにおんぶされたこととか、友達と遊んだこととか、言い争って、喧嘩したこととか、なかったのかな。ちゃんと知りたいよ、そういうこと」

 そして、少女は夏美のほうを真っ直ぐに見て、言うのだ。

「私、誰かを好きになったことって、あるのかな。ねぇ、夏美ちゃんは、誰かを好きになったことって、ある?」
「私は・・・」

 夏美は、言い淀んだ。恋。そう、それが果たして恋などと呼ばれる類のものなのか、と夏美はいつも考えてしまう。思えば、不器用な恋だった。自分を苦しめていくだけの、辛くて苦しい恋だった。夏美はずっと、その気持ちを伝えるための言葉をしらずに、いつしかその思いは、救いようもないほど屈折したものへと、変わっていった。それが、始まりで、全てだった。

「あるよ」

 夏美は答えた。答えて、またずるずるとベッドの中に沈みこんでゆく。

 私も記憶をなくしたほうがよかったのかもしれない、と目を閉じたまま夏美は思った。あの車のヘッドライトが近づいてきたときにもっと強く頭をアスファルトに打ち付けてさえいればそれでよかったのだ。そう思って、夏美は自分のあまりのおろかさに泣きそうになった。痛い、と思った。胸の奥がちりちりと焙られているようで、苦しかった。

 そのうちに眠ってしまったのだろう。空が赤いと思って目を覚ましたら、やはり窓から茜色の小さな空が、薄く赤く差し込んでいて、窓際に寄りかかる少年の姿を、黒くはっきり映し出していた。

「・・・秋人」
「ああ、起きたんだ、夏美」

 秋人は言った。暫く空を眺めた後に、秋人はまるで何かのいいわけでもするかのように、夕陽が、あんまり綺麗だから、と呟いた。夏美は頷いた。その声が、その仕草が、まるであの頃に戻ったみたいだ、とほんの一瞬夏美は思った。

「いつからきてたの?」
「少し前だよ、いや、ぐっすり眠ってたから」
「起こしてくれても、よかったんだよ」

 ああ、そんな言葉ではなかったのだ、と思っていた。私が今言わなければいけない言葉は、そんなちんけで在り来たりなものでは、決してないのだ。夏美は、病室の窓に凭れ掛かる少年の姿をじっと見ていた。もう、むなしい仮定を繰り返すことにも、疲れてしまった。もとより、そんな言葉を夏美が知っていたのなら、こんなことにはならなかったのだから。

「学校じゃあ、そろそろ期末試験なの?」
「ああ。もう一週間前に入ってるよ。クラブももう無いし」
「ああ、だからこんな時間にこれたのか」
「夏美は、テストはどういう扱いになるのかな」
「さぁ、下手すると留年とかも、ありかもね」
「じゃあそうなったら、夏美は俺の後輩になるわけだ」
「なんかちょっと、それは嫌だなぁ」

 夏美が言うと、秋人は声を立てて、笑った。夏美も釣られて、秋人が今風の私服なんかをさらっときこなして、キャンパスの中を闊歩している姿なんかを想像して、噴き出してしまった。目の前にいるこの幼馴染も、自分も、そのうち大学生になり、いつかは社会人になるのだという、その何とも当たり前なことを、今の今まで忘れていたような気になって、たまらなく不思議に思えてきた。

 暫くすると会話が途切れて、まるでそのタイミングを計っていたかのように、セミがじりじりと一音節だけ静かに鳴いた。夏見は、窓の外でゆっくりと暮れていく空に目をやった。風が吹いて伝線が揺れて、そこに留まっていた二匹の鳥たちが、驚いたように飛び立っていった。

「夏が来るね」

 夏美は呟いた。秋人は頷いて、

「そうだな、夏が来て、夏が終わったら、クラブも引退して、俺たちは本格的に受験生だな」
「うん。また受験が、来るんだね。私たちも大学生に、なるんだね」

 実感はまだまだ湧いてこなかった。「あの時」の延長に今があって、自分の上にも秋人の上にも、等しい年月が流れたのだということを、これほどまでに強く意識したことがあっただろうか。ああ、月日は流れるのだ、人は変わってしまうのだ、と夏見は思った。そのことが少しだけ、悲しくもあった。

「なぁ、夏美」

 秋人が夏見の名を呼んだ。彼は夏見のベッドの傍まで歩いてくると、そこにあったパイプイスに腰を下ろした。

「どうして、あの時キスなんか、したんだ」

 秋人は、真っ直ぐ夏美のことを見つめていた。思いかけず、真剣な表情がそこにはあって、それは夏美に諦めにも似たある一つの感情を抱かせた。夏美は黙したままで目を閉じた。いつかは必ず、こんなときが来ることを知っていたのだ。逃げていたとしても、いつかは秋人と真正面から向き合わないといけない日が来ることを、知っていたのだ。

 夏見は、息を吐き出した。

「聞かないほうが、いいと思うよ。聞いたら絶対、情けなくて、秋人、死んじゃいたくなるよ」

 それだけ言うと、夏見は精一杯の笑顔を装って、笑ってみた。けれど、あの子のように上手くはいかなくて、そのことが尚更惨めに思えた。ああ、なんて私は不器用なのだろう。もういいや、と諦めたなら、そこに光はあることは明白で、余計にそのことが悲しかった。

「諦められなかったんだもん。辛かった。苦しかった。祥子には多分、嫉妬してた。秋人にも、多分嫉妬してた。ただそれだけだよ。理由なんて、ないんだよ」

 早口で言った。それだけ言って、口を閉じた。夏美は、もう今にも泣き出したい気分になった。静かな、音のない沈黙を、痛く思った。

「夏美・・・」

 彼が、私の名を呼んだ。目を開いて、振り向けば、底には懐かしい彼の姿がちゃんとあった。私は絶対に、この人のことを忘れることはできないだろう、と夏美は思った。強く思った。

 

そして、夏美は秋人の腕が背中に回されるのを感じて、自分が秋人に抱き寄せられたのだということに、気付いた。視線が合った。夏美が目を閉じて、秋人が夏美の唇と自分のそれとを、重ね合わせた。

 それは、永遠のような、一瞬だった。

 どちらからともなく、体が離れた。秋人は立ち上がって、再び窓際まで行ってしまった。夏美には、夕陽に照らされた秋人の横顔だけが、見えていた。

「夏美のことが好きだったよ。生意気で、自分勝手で、でも時々、すごく素直で、優しくて。夏美のことが、ずっと好きだったよ」

 秋人のその言葉が、夏美にはたまらなく悲しかった。思わず目から涙が流れて、あふれ出た涙は止まることも知らず次から次へとあふれ出してきた。過去形で語られた秋人の言葉が心の奥に突き刺さって、何もできなかった自分の不甲斐なさが、身を裂くほどに苦しかった。

 後悔した。まるであの頃の自分たちに戻ったみたいだ、なんて一瞬たりとも思ってしまった自分自身を呪い殺してしまいたいほどに、後悔していた。どうしてそんなことを思ってしまったのだろうか。どう足掻いたって、決してあの頃には戻れないのに、その事だって、ちゃんとわかっていたというのに。それなのに、どうして。辛くなる、苦しさがばかりが、募っていく。

 今、願いが一つだけ叶うとしたら、もう決して迷いはしない、あの頃に戻って、あの日いえなかった言葉を彼に言うのだ。「好きです」とちゃんと伝えるのだ。

「ごめんな、言えなかった。どうしても、プライドとか気恥ずかしさとか、いろいろなものが邪魔して、どうしても言えなかった。だから、ごめん」
「そんなこと・・・」

 夏美はごしごしと目を擦った。こんなことぐらいで泣くなんて、全然梶谷夏美らしくない。それなのに、どうしても絞り出した声は、涙で濡れてしまうのだった。

 彼が振り向く。その一瞬で、夏美は悟る。すべて終わってしまったのだということを。秋人の真剣な眼差しの先に、夏美はその気配を、感じ取った。

「もう戻ろう。明日からはちゃんと、俺は俺の日常に。夏美は、夏美の日常に」
「うん・・・」

 夏美は、頷いた。

「戻れるかな、ちゃんと」

 秋人は、その言葉には頷かなかった。ただ黙って、そこにある世界を夕陽の赤を、眺めているのだった。

――明日からは、ちゃんと・・・

 そう言ったときの秋人の言葉が、夏美の中では繰り返されていた。夏美はそっと目を閉じた。今まで秋人と過ごしてきたたくさんの時間が、たくさんの思い出が、走馬灯のように駆け巡っては、消えた。もう、この記憶の中に、新しい思い出が加わることは無いのだ、と思ったら、また新しい涙がこぼれた。泣くものか、と唇をかんだ決意はかくもあっさり突き崩されて、夏見はまた、静かに涙を流すのだった。

「そろそろ帰るよ。早く、怪我を治して、学校にちゃんと来るんだぞ」

 夏美は頷いた。再び口を開けば、何か言わなくても良いことをいってしまいそうな気がしたから、夏美はずっと黙していた。秋人は、「じゃあな」と言って、夏美の病室を後にした。部屋を出るとき、最後にこちらを振り向いた秋人の視線が、夏美の心に突き刺さった。

 ばいばい、秋人。夏美は、全てに別れを告げた。もう、会わないよ。もう、会うことは無いんだよ、秋人。保健室にだって、もう呼び出さないからね。もう会わない。もう会えないんだよ、秋人。

 そう思った。なんとも悲しみに耐えられそうに無くなって、夏美は、嗚咽を漏らしていた。暫くは、そんな風にして泣きつづけた。

 ああ、ヒグラシの声がする。夏が来るのだ。もうそこまで、それは近づいてきているのだと、夏美は思った。

 窓の向こうに夕陽が沈んで、また新しい一日がやってくる。


 エピローグ♪

 翳り始めた雲から、とうとう耐え切れなくなった雨の雫が一つ、また一つ、と落ち始めた。

「あ、雨だ。ねぇ、夏美、どうしよう。雨が降ってきたよ」

 少年は、前を行く少女に向かって、叫んだ。

「・・・ほんとだ」

 少女は立ち止まった。手のひらを開くと、そこにポツリポツリと雨を感じた。後ろを振り返ると、背負っていたリュックサックを下ろして、がさごそ、と中を探っている少年の姿があった。

「何してんの?」
「えと、傘。折りたたみのやつ。確かに入れたはずなんだけど・・・」

 あ、あった。と言って少年はリュックサックの中から小さな青紫の折り畳み傘を取り出して、パッと開いた。

「おいでよ、夏美。入れたげる」
「・・・いらない」
「なんでさ。雨に濡れたら、風邪引くぞ」
「引いたって良いもん」

 少女はそう言うと、少年を置いて一人ですたすたと歩いていってしまおうとした。少年は手元の傘をぼんやりと見て、しぶしぶと言った感じでそれを畳んだ。傘をリュックの中に放り込み、慌てて少女の後を追う。

「待ってよ、夏美。どこ行くんだよ」
「知らない。どっか。だいたい、この近くで綺麗な夕陽が見れるって言ったの、秋人じゃん」
「そうだけど、迷っちゃったし。ねぇ、もう帰ろう。雨も降ってきたし、多分もうすぐ日も暮れるし」

 少女は何も答えずに、立ち止まることもしなかった。少年は少女を説得することを諦めて、ただ黙って少女の後につき従うだけだった。こんな雨の日に夕陽なんて見られるはずもないというのに、それを口にすることさえただなんとも億劫だった。

 そのうち、空が不穏な黒色を孕み始めて、さっきまでの雨はたちまちのうちに土砂降りになった。遠くのほうで雷鳴が響き、空が一瞬白く染まった。少年と少女はそばにあった大木の下に逃げるように転がり込んで、雨止みを待った。空が深い、と少年は思う。ひょっとするとこの雨は、降り止むということを知らないのではないか、と不安を感じた。

「すごい雨だね」

 少しでもその不安をごまかすために、少年はそう呟いた。少女は口を真一文字に結んで、さっきからずっと黙ったままだ。きっと、彼女は疲れているのだ、と少年は思う。ざーざーいう雨の音。音のない、沈黙。少女の前髪が雨に濡れて、額に張り付いているのが目に入った。そんな些細なことばかり、覚えている。

 そして、暫くすると降り続いていた雨も、止んだ。夏の夕立特有の、妙にあっさりとした引き際のよさだった。

「止んだね、雨」
「・・・うん」
「行こっか」
「・・・うん」

 そして、二人はまた歩き出す。

 暗雲が去って、さっきまでの飴がまるで嘘のような朱色の空が二人の頭上には広がっている。少年に手首に巻いた腕時計に目をやった。六時四十三分。多分、もうじき日が暮れる。

「あ、秋人」

 その時、少女が少年の名を呼んだ。下ばかり見て歩いていた少年は、顔を上げる。

 視界の先で、森が割れていた。

 少女が走り出した。少年もまた、何度も転びそうになりながら、走った。

 視界が開けた。森が終わって、小高い丘のような場所に出たのだった。

「すごいね」

 少女の隣に立って、少年は呟く。

「うん」

 少女も、素直に頷いた。

 原色よりも美しい赤が、そこにはあった。少女の横顔を黄色く染めて、輝いていた。

「あ、あれ、僕らの町じゃない?」
「あ・・・、ほんとだ。随分遠くまで来たつもりだったけど、意外と近くだったんだ」

 少年は思う。ただ単純に、ここに来られてよかった、と。そう呟いたとき、少女が何気なくこちらを向いて、何気なく、笑った。この笑顔が見られて、よかった、と少年は思ったのだった。




 こうして、二人のささやかな冒険の、幕は下りた。

(END)

by sinsekaiheto | 2007-09-02 08:55