2007年 01月 13日 ( 1 )

ありふれた日常


 ありふれた日常

 朝起きると、姉が人形に話しかけていた。
 僕は唖然として、そんな姉をぽかんと見ていた。
「は~い、いちらちゃ~ん。今日もいい天気でシュね」
(もい、そうはお~)
 パンダが答えた。白と黒のパンダのぬいぐるみだ。たしか、物置の中で眠っていたはずなのにいつの間に持ち出してきたのだろうか。姉はそのパンダのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
「あ、あの、姉ちゃん」
「何よ!文句ある?」
 ぎろりと睨まれて、僕は「べ、べつに」と口ごもった。
 昨日までは普通だった姉は、急におかしな生物になってしまったようだ。土曜日の朝だというのに、家にはなぜか父も母もいなくなって、二人がいるこの部屋以外は物音一つしなかった。
「ねえ、父さんとかあさんはどこに行ったの?」
 ポツリと、僕が尋ねた。姉は首をかしげて、しばらく考え込んだ後、
「父さんは、死んじゃった」
「はぁ?」
「お母さんは、男作って出ていっちゃった」
「へ?なにいってんの?」
 姉は本当に頭がおかしくなったみたいだ。ふふふと僕を見て、その顔に満面の笑みを浮かべた。世にも恐ろしい笑みだった。
「だから、今日はおねえちゃんと二人きりだね?」
 長い一日が始まった。その時僕は悠長にそんなことを考えていた。


 コトリ、と目の前に置かれたそれを見て、僕は目を疑った。
「はい、朝ごはん。いっぱい食べて、もりもり元気になるのよ」
 それは、どこからどう見ても、皿の上においてある、一本のにんじんであった。
「姉ちゃん、これって・・・」
「何よ、あんたあたしの作った料理は食べられないって言うの?この親不孝もの」
 また、すごい目で睨まれた。
「でも、姉ちゃん、今冷蔵庫から取り出して、お皿に乗せただけじゃんか」
 それを料理と言うのなら、世界中のシェフたちが暴動を起こしかねないと思う。
「せめて水で洗って、切るぐらいしてくれないと」
「あんた、そんなんだから社会の成績がいつまでたっても上がらないのよ。授業で習わなかったの?1本の人参を作るのに、農家の人たちは何時間も何時間も迫り来る太陽の殺気と戦っているのよ?」
「いや、それはちょっと違うと思うんだけどな」
 それに彼らはそれでお金をもらっているのだから、いいではないか。
「なに言ってるの?本当に生意気になったわね。いつからそんな子になっちゃったの?お姉ちゃんはそんな子に育てた覚えはありませんよ」
 こんな姉に育てられたような覚えも、僕には無かったのだけれど。
「早く食べて頂戴。お皿を洗わないといけないでしょう」
 ああ忙しい忙しいこんなことだから男の子を生む前に一言言ってくれっておかあさんに頼んでおいたと言うのにあの女と来たらあたしの意見なんてまったく無視しやがってこん畜生、と姉はまったく忙しくなさそうに僕が座っているテーブルの周りをうろうろとした。
「あ、そうだ。お姉ちゃん買い物に行くんだけど、何かお昼に食べたいものとか、ある?」
 できれば食べることのできる奴をお願いします、と僕は投げやりな気持ちで人参にかじりついた。


 確かに何でも良いと言った。けれど、食べれるものを、といったはずなのだ。それなのに、テーブルに置かれたのは赤や緑が何ともいえないドッグフードに牛乳がかかっただけの代物で、もはや人間の食べ物でですらなかったのだ。
「姉ちゃん。ドッグフードだよね。これ」
「そうよ、コーンフレークの要領で牛乳をかけてみたの。美味しそうでしょう」
 けろりと姉はそんなことを言って、カップに入ったアイスを美味しそうに食べた。弟にはドッグフードを食べさせているというのにひどい姉だ。
 牛乳に浮かんだ赤や緑が何とも毒毒しい光を放っている。僕はキッチンまで歩いていって、そのドッグフードを流しに捨てた。お湯を沸かして、カップラーメンを作ることにした。
 リビングから姉が顔を出す。
「手伝おうか?」
「いえ、結構です。」
 謹んでお断りした。そんなことをされたら、カップラーメンが何か得体の知れないものになってしまう。
「そう?じゃああたしは二階でお昼寝してるから。何かあったら起こしにきてね」
 そういって、姉はリビングを出て行った。
 シューシュー、とヤカンが湯気を上げている。家が燃えたって、起こしに行ってやるものか、と思いながらお湯をカップに注ぎこんだ。


 六時を過ぎるまで、の自分の部屋で予習をしていた。それから、咽が渇いたので、リビングまで降りてきた。リビングでは姉が漫才を見ながら、ぽろぽろと涙を流していた。
 僕は、付いていけないと思う。冷たい水を咽に流し込んだ。
「何で泣いてるのさ」
 まともな答えは期待していなかったけれど、一応尋ねた。
「泣いてちゃいけないわけ?この家では、涙を流す権利さえ保障されていないわけなの?ここは自由の国日本なのよ」
「別に、そういうわけじゃないけど」
 今日だけで、いったい何度目だろう。僕は深いため息を吐き出した。
 テレビは若手の漫才コンビを映し出していた。この人たちもかわいそうにと僕は思う。きっと、自分たちの漫才が笑われはしても、それを見て泣かれているであろうとは、夢にも思っていないのだろう。姉には漫才を見せる価値も無いと思う。、
「あ、そうだ、さっき父さんから電話がかかってきてね、十時までには家に帰ってくるって」
 死んだんじゃなかったのか?
「それと、夕ご飯はカレーかグラタンで迷ってたんだけど、漫才見てたら悲しくなってきて、何もやる気がなくなっちゃったから、もう好きなもの作って食べて」
 嘘?ラッキー。うわ、もうなんか涙でそうなくらい嬉しいです。
 僕はカレーでも作ろうか、と冷蔵庫を開けて、目が点になった。
「ちょっと姉ちゃん、何でアイスが冷蔵庫に入ってるの?冷凍庫に入れなきゃだめじゃん。べとべとに溶け出してるんだけど」
「うるさいなぁ。今良い所なんだから、黙ってなさい」
 ブラウン管に穴が開くのかと思うぐらい真剣に、姉はCMを凝視している。
「CMでそんなに熱くなられても困るんだけど。って、おい。姉ちゃん。これカレーのルーじゃなくてシチューのルーだって、なに間違ってるんだよ」
 姉はぽかんと口をあけて、僕に尋ねた。
「・・・どう違うの?」
 ふ、そんなことだろうと思ったよ。
 僕は敗れ去った落ち武者の気持ちがわかってしまいそうになっていた。
「もういいよ、今日はマックで喰うからさ」
 また、財布が軽くなるけど、この際仕方ない、と思うことにした。


 家にかえると、父も母も帰ってきていて、ついでにペットのネムも扇風機の前でごろごろしていて、僕は余りにもありふれた日常に、思わず涙が出てきそうになった。
 二階から姉が降りてきて、玄関で僕を迎えた。
「おかえり」
「ただいま」
 姉が僕に、笑いかけた。
「今日は、とんだ災難だったね」
「本当。まったくだ」
 玄関には、小さなあやめが、僕の知らないうちに活けてあった。
     
(END)
 この物語はフィクションです。

                                                    
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by sinsekaiheto | 2007-01-13 20:09 | 小説