2007年 01月 18日 ( 1 )

いつか、桜の木の下で・・・(5)


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「義時様、義時様!」

 血相を変えて部屋の中に飛び込んできた菜春を見て、義時は驚きの表情を浮かべた。

「どうしたんだよ、菜春。そんなに慌てて」
「・・・義時様ぁ」

 菜春は、義時の前で頽れるように座り込んだ。顔を上げると、涙が下へ下へと流れ出していた。どうしてだろう。涙でにじむ彼の困ったような顔が、こんなにも愛しい。それなのに、どうして彼は遠くへ行ってしまうのだろう。ずっとずっと、触れていたいのに。ずっとずっと、一緒にいたいのに。どうして。

 晶子の言葉が、菜春の中でぐるぐると回り続けていた。

「おい、一体どうしたんだよ、菜春」
「よ、義時様のお父様が、こ、殺されちゃったんだって、お、お母様が・・・」

 しゃくりあげ、躓きながらも、菜春は義時にそう告げた。

 義平が死んだ。それが何を意味することなのかが、菜春にもわかってしまったのだ。晶子に言われるまでもなかった。義時は、命を狙われているのだ、と。

 それを聞いた義時は、顔色を一変させて、険しい表情を顔に浮かべた。菜春は泣きじゃくるばかりで、何も言えなかった。

「父上が・・・、そんな・・・」

 そんな筈はない。父上が殺されただなんて、きっと何かの間違いだ。だって、父上はあんなにも強かったのに。義時は必死の気持ちでそう自分に言い聞かせた。けれど、そう思えば思うほど、浮かんでくるのは、いつか見た夢の、父の最後の場面であった。

 ああ、本当に父は殺されたのか。

 その思いが、すとんと義時の心の中に納まって、そう思ったとたんに胸の奥の方が熱くなった。義時は、あと少しのところで泣いて、喚き散らしそうになるのを、必死に押しとどめていた。

菜春がいるんだ。彼女の前だけでも、義時は笑顔でいたかった。義平が死んだ今となっては、義時がこの城に留まっていることはあまりにも危険すぎる。すぐにここから逃げなくてはいけない。これが二人の最後の別れとなってしまうのだ。けれど、二人の思い出が、涙の別れだ、なんてそんなものはあまりにも悲しすぎる。

 そう思うと、義時の心はすっと落ち着きを取り戻していった。

「姫、もう泣くな。姫は、武士の子だろう?武士の子は、そう簡単には泣いてはいけないんだ」

 そういったときの義平の瞳が忘れられない。太陽のように、何の混じりけもない輝きだった。

「義時、様?」
「姫はすごいよ。俺は、姫の笑顔を見れば自分がどんなに辛くったって安心することができたんだ。だから、泣くなよ、菜春。泣くなよな。俺は、姫の笑顔がみたい」

 私は、こんなにも子どもだった。義時様の辛さも苦しみも、何もわかっていないくせに、我儘ばかり、言ってしまった。義時様を困らせてしまった。義時様から、離れたくばっかりに。

「俺は大丈夫だから。な、菜春」

 ああ、どうして義時様はそんなに穏やかな顔で微笑むことができるのだろう。

「義時様、やっぱり駄目。義時様を助けてくれるよう、菜春がお父様に頼んでみる。義時様は、もうお父様の敵じゃないんだって。姫が必死に頼み込んだら、きっとお父様だって首を縦に振ってくれるはず・・・」

 菜春にとって、それは最後の望みの綱だった。しかし、義時がそれに頷くことは、なかった。

「こればっかりはどうすることもできないんだよ、菜春」
「どうして!」
「俺だって、武士の子だ」

 義時は静かにそう言った。けれど、その言葉はほかのどんな言葉より、重く冷たいものだった。

 義時様。あなたが望んでおられることは、本当にそんなことなのですか?

「俺は、父の敵である安実様のことを、一生許せない」

 そう静かに呟いた義時の瞳には、力強い色が見て取れた。この人は、最後まで武士である自分のことを、捨てないのだ。

 菜春は、目を瞑った。涙もいつしか枯れ果てて、涙で滲んでいた義時の顔が、やっとはっきりと見えるようになった。絶対に忘れない。この、愛しい人のことを、ずっと心に刻み付けておく。菜春は、そう決意していた。

 
 トントンと扉を叩く音がして、六助の声が聞こえてきた。引き戸が開いて、ひょこりと六助が顔を出した。

「あれ、どうしたんですか、若、菜春姫。なんだか、空気が重たいですよ」

 部屋に入ってきた六助は、義時と菜春を交互に眺めながら、そう尋ねた。義時は、きっ、と顔を上げた。

「六助。父上が討たれた。早急に逃げる準備をしてくれ」
「よ、義平様が?」

 それを聞いたとたん、六助の表情が青くなって、どたどたと部屋を出て行ってしまった。菜春は怯えた表情で義時を見た。義時は、菜春に向けて、大丈夫だよ、と呟いた。

「義時様・・・」

 義時は何も言わなかった。ただ、いつも菜春が泣き出してしまったときによくやるように、菜春の肩をそっと抱いているだけだった。

 ただ、普通に寄り添いあって、笑いあっていたいだけだったのに。お金もいらない。つまらない地位も権力も。そんなもののために、生まれてきたわけではなかったのに。百万回喧嘩して、百万回仲直りして。そんな平凡な未来がいつまでを続いてくれることだけを、ただそれだけを祈っていたのに。

 もう動かない。もう戻らない。たった一つ菜春に残されたのは、精一杯「今」を感じることだけだった。

 菜春は手を伸ばす。抑えきれない感情が、奥のほうから吹き出してきて、自分ではどうすることもできなくて、菜春は義時に抱きついていた。義時は戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに菜春の背中に手を回し、ぎゅっと強く抱きしめた。

「菜春・・・」
「あと少しだけ。あと少しだけで良いから、こうさせて下さい。菜春の、最後のわがままにしますから。あと少しだけ。義時様を、感じていたい」
 
 泣くまい、と我慢していたのに、涙は枯れたはずなのに、涙もろい菜春の涙腺はすぐに熱を持ってしまった。

「菜春・・・」
「お願い・・・」

 義時のぬくもりが、そこにはあった。その温もりを感じながら、菜春その言葉を何度も繰り返していた。離れたくないのに。どこにも行ってほしくないのに。その思いは滴となって、菜春の瞳からあふれ出した。

「菜春」

 優しく、義時が彼女の名を呼んだ。愛しい声、義時の指が、菜春の目の淵にたまった涙をそっと掬った。

「今まで、ありがとう」

 彼が言った。

「菜春に会えて、本当によかったよ」

 涙が、どうしても止まらない。泣くまいと思えば思うほど、歯を食いしばれば食いしばるほど、涙は後から後から流れ出した。どうして?もう泣かないって決めたのに。私は武士の子のはずなのに。それなのに、どうしても涙が止まらない。

 けれど、義時は何も言わなかった。泣きじゃくる菜春を、そっとそのまま、好きなように泣かしてくれていた。




 もう一生分の涙を使い果した、と菜春が思ったと同じくらいに、ずっと抱きしめてくれいた義時が、菜春を解放して立ち上がった。

「さて、菜春。そろそろお別れだ」

 菜春は顔を上げた。それは、笑顔で分かれるための儀式だった。

「今から、この城をでる」
「・・・義時様・・・。絶対、絶対、また会えるよね」
「・・・ああ。会えるよ。絶対」

 そう言って、義時はにっこりと微笑んだ。それは、完璧な笑みだった。純粋で、混じりけのない、太陽のような笑顔だった。

「菜春、あの桜の木を覚えているか?」

 義時は、庭の中央に生えている桜の巨木を指差した。

「うん。・・・一年前、初めて私と義時様が会った場所」

 こくりと義時は頷いた。

「いつか、あの桜の木の下でまた会おう。そうしたら、俺たちは晴れて夫婦だ」
「・・・義時様。約束だよ。菜春、それまでずっとずっと待っているから」
「ああ。約束だ」

 夕陽が薄く差し込んで、春の日の庭を美しい茜の色に染め上げていた。

 いつか、桜の木の下で再び廻り合うことだけを信じ、二人は別れを決意する。

 そして、それが菜春と義時の最後となった。

❀           ❀
 
 義時は、多神ノ城の桜を見ることなく、この地を去ることになる。
 
これから先、桜が満開になるたびに、菜春は義時のことを思い出す。義時がいた日々のことを思い出し、彼の口癖なんかを懐かしみ、過ぎて行った時間と掴むことのできなかった時間のことに思いを馳せる。

 そして、あの時交わした約束を、再び胸の中に刻み付ける。

 
 いつか、桜の木の下で・・・

                                        

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by sinsekaiheto | 2007-01-18 12:34