2007年 08月 14日 ( 1 )

不器用な恋の終わりに(2)

 
 続き・・・。

 

 息を吸って、そろそろとドアを横にスライドさせた。中に入ると、音に気付いた何人かの視線がばらばらと秋人に向かって投げかけられたが、すぐに皆無関心を装って自分の手元の漫画やら雑誌やらに視線を落とした。机の上にはピンクのカバーのかけられた文庫本やらなんやらが散乱していて、独特の雰囲気をかもし出している。埃と、消毒液のにおい。眼鏡をかけた賢そうな少女が二人、額を寄せ合って何かをひそひそと話し込んでいた。

 保健室というのは不思議なところだ、と秋人は思う。実際、保健室だけは、学校のほかのどの部屋からも切り離された場所だと感じることが確かにある。謎めいた空気、秘密のおしゃべり。そんな感じだ。秋人はこの部屋のもつどこか憎めないその空気が少しばかり苦手だった。

「あれ、秋人どうしたの?」

 ベッドを区切っていたカーテンがシャー、と開いて髪の長い少女が顔を出した。秋人は救われた思いでその少女のもとへと歩いていった。前川加奈江。彼女は、秋人と同じクラスの女の子だった。

「メールが来たんだけど、夏美いる?」
「ああ、なっちゃんね。寝てるよ」

 加奈江が指差したベッドの先に、すやすやと寝息を立てる夏美の姿があった。幸せそうな寝顔に、思わず「眠れる森の美女」なんていう場違いな言葉が浮かんできて、秋人は慌ててそのイメージを頭の中から追放した。「眠れる森の美女」なんて、一番夏美からは遠い言葉だ。いくら待ったって、王子様は来ない。そう思った。代わりにこんなところまでのこのこやってきてしまった自分自身に、情けなさを通り越した呆れを感じた。いままで、散々二人のことを繋げてきたポケットの中のこのケイタイも、こんな自分に冷たい嘲笑を浮かべているだろう。大いに嘲ってくれりゃいい。そう思った。秋人は、ベッドの傍に放置されていたいすの上に反対側から腰を下ろした。

「大変だねぇ、いろいろと」
「ああ、まあね」

 加奈江は夏美の寝顔を見つめて、くるくると夏美の髪を弄んでいた。秋人は腰掛けたいすの背もたれに頬杖をついて、そんな二人を眺めていた。暫くすると、加奈江は振り返って秋人をみた。視線が合って、なんとなく気まずくて、秋人は加奈江の視線から、目を逸らした。

「どういう関係なのかな、二人は」
「別に・・・、何も」
「ほんとう?」
「ああ、本当だって」

 秋人の返答に、加奈江はチラッと何かを言いたそうな視線を向けた。だが、秋人がそれに気付かない振りをしたからか、結局彼女は何も言わなかった。不自然すぎるくらいの沈黙が落ちていて、もちろんここは保健室だから静かなのに越したことはないのだが、それでも沈黙というのはやはりどこか落ち着かない。窓の外に広がる景色。風が吹いて、木々の緑が忙しなく揺れ動いているというのに、木の葉が立てるざわざわという音も、灰色の雲が不機嫌そうに動いた音も、何も秋人の耳には聞こえてこなかった。花瓶に活けられた名も知らぬ花の花弁でさえもまるで呼吸をやめてしまったかのように、作り物めいて見えた。

「さてと」

 加奈江は自らその沈黙を破って、立ち上がった。

「あたしそろそろ行くね、クラブももうすぐ始まるし。秋人はどうする?」
「部活?」
「うん」
「今日は休む。なんかもう、気分じゃないし。部長には具合悪いから休むって言っといて」
「そっか。わかった」

 頷くと、「バイバイ」を言い残して、加奈江はさっきと同じようにピシャリとカーテンをしめて、行ってしまった。後には、秋人と夏美と、数分前までとなんら変わりない静かな空気と、時たまカーテン越しに聞こえてくる女の子たちの笑い声だけが、残されていた。

 夏美は卑怯だ、と秋人は思う。

 いつだってそうだ。自分勝手でわがままで、秋人の言うことなんて一つも聞いたためしがないというのに、よほど一人になるのが嫌なのか、こんな風に時たまメールを送っては、秋人のことを振り回すのだ。だから、夏美が保健室のベッドの上で、こんな風にすやすや眠っているのなんかを見ると、秋人は恨み言の一つでもこぼしたくなる。ああ、やっぱり夏美は卑怯だ。言いたい言葉と伝えたい思いは雪のように連なって、次から次へと止まることも知らずに降り積もる。それなのに、夏美は今も眠っているのだ。「眠りの森の美女」だなんて、笑ってしまう。いくら待ったって、王子様は来ないのだ。そして、それはきっととなりにいる、秋人のせいでもあるのだった。

―――なあ、なんで俺なんだ?付き合ってる奴がいるんだから、そいつのこと、呼べば良いだろう。

 浮気調査だって、今回が初めてのことじゃなかった。告白してきた男の素性を調べさせられたことなんて、もう数えるのも馬鹿馬鹿しいくらい。その度に苦しい思いをさせられて、根も葉もない噂に振り回されて。

 保健室のベッドに身体を起こして、黙り込んでしまった夏美にそう尋ねた。夏美はじっと秋人を見つめた。思わず吸い込まれそうになるくらい深いひとみが、そこにはあった。

夏美は、たった一言だけ、こう答える。

―――だって、全部アキのせいじゃん。

 暖かい春の陽だまりの中の、やはり今とまったく変わらない場所に、あの頃の二人も座っている。今よりも少しだけ幼い表情で、窓の向こうには、雲ひとつない青空が広がっていて。

 夏美は、そう答えたきり、黙り込んでしまった。

 アキのせい、か。

 秋人は、心の中で夏美の言葉を思い出していた。あの頃、まだ高校二年生に進学したばかりの夏美がどんなことを思いその言葉を呟いたのかは、高校三年になった今でもわからなかった。あれから、一年間という気の遠くなるような時間が、皆一様に流れたというのに、自分たち二人の間では、時計の針が怠惰に動くのを止めてしまって、似たような日々の繰り返しが、多分これから先も続くのだろう。それは幸せなことなのか、それとも不幸せなことなのか。きっと、今の秋人にはわからないことがたくさんありすぎるのだ。

「ねぇ、今何時」

 突然、ベッドのほうから声がかかった。秋人が考え事をしているうちに、夏美が目を覚ましたようだった。

「もうすぐ四時。・・・起きてたのか?」
「うん。ちょっと前からね。・・・四時かぁ、一時間近く寝たかな」

 夏美はそういって、伸びをしながら身体を起こした。

「で、なんか体育の授業中に倒れた、とか聞いたけど」
「ああ、あれは嘘。ただの寝不足」
「はぁ、寝不足?」
「そう。昨日ね、数学の宿題をしてたら途中でハイになっちゃって、そのまま勢いで完徹しちゃったんだ」
「なんだよ、それ」

 秋人が呆れてちょっと笑うと、釣られて夏美も、弱々しくだが笑みを浮かべた。冗談が通じてよかった、と安心しているような、笑みでもあった。呼び出されたから来たって言うのに、これだもんな、と秋人は思った。

「あ、雨だ」

 夏美が呟いて、窓の向こうで指差した。秋人は立ち上がって、窓のところまで歩いていった。ガラス窓の向こうには、灰色の湿った雨雲が遠くの空まで広がっている。鍵を開いて、窓を横にスライドさせた。雨の匂い。秋人は突き出した腕に、ポツリポツリと春の雫を感じていた。

「あ、思い出した」
「え、何を?」
「あの日も、こんな天気だったよね」

 夏美が呟く。秋人は、彼女の言葉を背中で聞いた。

「あの日も、今日のこの天気みたいに、突然曇りだしてきて、雨が降ってた。冒険、とか言って遠くの森まで遊びにいったことがあったよね。ねぇ、アキ、覚えてる?」
「ああ・・・、覚えてるよ」

 秋人は頷いた。雨が段々と勢いを増して、アスファルトの地面を黒く塗りつぶしていった。秋人は腕を引っ込めて、窓を閉めた。一瞬空が白く光って、低い唸り声のような雷鳴が聞こえてきた。

「どうして、あんな奥まで行っちゃったんだろうね。昼ごはんも食べてなくて、おなかも空いてたのに、今さらあとには引けなくなって」

 秋人も、思い出していた。雨の中を歩く幼い少女。秋人は夏美に取り残されまいと必死になって、夏美の背中を追いかけていた。ああ、思い出した。あの頃の夏美のお気に入りだった黄色い靴に泥がついて汚れていたのを。夏美は疲れると無口になる女の子だったから、そんな夏美に声をかけるのも疲れることだったから、秋人は何もしゃべらなかった。夏美も、何もしゃべらなかった。

「なんか、あの頃のことがすごく懐かしい」

 十七歳の夏美が呟いた。あの頃の延長線上に今の自分たちがいるということが、秋人には時々信じられなくなるときがある。あの頃の夏美と、今の十七歳の夏美とが、なかなかどうして一本の線で繋がってくれない。それなのに、今の夏美をあの頃の夏美を、秋人の中ではどうしようもなく夏美なのであった。

 振り返って見たベッドに身を起こす夏見の姿が、秋人のひとみには小さく映る。

「どうしたんだよ。夏美がそんなことを言うなんて、珍しい」
「うん。・・・なんだろうね。最近、なんかおかしいんだ、あたし」
「・・・なんだよ、それ」

 さっきみたいにそう言ってちょっと笑ってみても、今度は上手くいかなかった。痛いと思った。ベッドの上で頼りない視線を自分の手元に注いでいる夏見の姿は、いっそ痛々しいくらいに秋人には思えた。そんな夏美はちっとも夏美らしくないはずなのに、今の秋人では、彼が白馬の王子様になれないのと同じくらい、どうすることもできないのだった。

「ねぇ、秋人。あたしさぁ、最近よく夢を見るんだ」

 夏美は、そんなことを秋人に言うと、またずるずるとベッドの上に仰向けになった。

「夢?どんな夢」
「・・・自分が自分じゃなくなっちゃう夢」

 パスリ、とまくらから空気の抜ける音が聞こえた。秋人はもう一度窓の外の景色に目をやって、ぴしゃりとカーテンを引いた。視界から消えるその一瞬に、眩いまでのいな妻が、空を二つに切り裂いていった。

「夢の中にね、もう一人の自分が出てくるの。それで、あたしに向かって言うんだ。私のために、死んでくれないか、って。どうせ生きててもろくな生き方しないんだから、って。その後、私は首を絞められて、殺されるの。そこで、いつも目が覚める」

 天井を見上げながら、夏美は淡々とそう語った。秋人は、夏美の隣のベッドまで歩いていって、腰を下ろした。秋人の目には、夏美が突然夢の話なんて始めたからだろうか、彼女が今にも崩れて、消えてしまいそうなくらい、脆く儚い、頼りないものに見えた。夏見の話は、秋人には正直よくわからなかったけれど、

「夏美は、夏美のままでいいじゃんか」

 そう思ったから、そのまま素直に口に出した。

「駄目だよ、もう今のままの私なんかじゃ、いられないよ」
「どうしてさ?」
「だって、あたしは罪深い人間なんだもん。悪事を重ねすぎた、自分でもどうしようもない人間なんだよ」

 夏美が言った。秋人には、それが悲痛な叫びのようにも、聞こえていた。

「どうしたんだよ、ナツ・・・」
「・・・本気で好きだった人、いなかったの」

 夏美が呟くのを、秋人は聞いた。

「今まで付き合ってきた男の子たちの中で、本当に好きになれた人、一人もいなかった」
「夏美・・・」
「ねぇ、アキ。あたし、病気だよ。病気なんだよ」

 秋人は、夏見の姿を見ていることが辛くなって、すっと彼女から目を逸らした。息を吐き出すと、思ったよりも吐息を重たくなっていた。もういいや、と思っていた。止まった歯車は動かない。それを動かそうとする気力も根気も、秋人にはない。ただただ、夏美の言葉に頑なに首を振ることぐらいしか、できないのだから。

 夏美が呟いて、ああ、やっぱりと秋人は思う。夏美は後悔しているのかもしれない。それか或いは、こんな雨の日に空を眺めて、人間でいること自体に急に嫌気がさしたのかもしれない。金魚蜂の金魚とか、ウサギ小屋のウサギとか、そちらのほうが、よほど生きるのには楽かもしれない。とにかく、今日はそんな天気で、そうすることくらいの権利なら、あると思った。

 それに、といって夏美の声が先を続ける。

「アキと祥子の仲を裂いたのだって、あたしだもんね。ほんとう、もう極悪人だよ。ろくな生き方しないっていわれても、仕方ないよ」

 しとしと、雨が降っている。雷が鳴って、ああ、多分どこまでのこんな陰鬱な空が続くのだろう。秋人は目を閉じて、そのまま後ろのベッドに倒れこんだ。少女たちの声が聞こえる。その中に、田辺祥子の声が混ざっているような気がしてきて、疲れているんだな、と秋人は思った。


続く
[PR]

by sinsekaiheto | 2007-08-14 20:33