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壊れ物の季節(4)


 続きです。

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  半分以上諦めが勝った私の隣で、多分は母怒り狂っている。声にも表情にも出さないけれど、気配だけでそれがわかる。目の前の成績と内申書と成績を見比べて「なんか沙由、これ、悪いわね」と呟いている。何をそんなわかりきったことを、と思ったが口にはしない。この十分間が早く終わることだけを祈って、私は貝のように黙り込んでいた。

「まあ、後は本人のやる気次第ですけど」

 と岩倉先生は言って、教卓の上にかけられた時計に目をやった。後、残り三分ぐらいだろうか。隣の母がはぁ、と息を吐き出した。ため息をつきたいのはこちらのほうだと思ったが、何だか母に先を越されたような気がしていて、そんなむしゃくしゃした気分のまま、残りの三分も過ぎていった。

 教室を出ると、さっきまでは不気味なほど静かだった母が私を責め始めた。当然そうなるだろうということは簡単に予想できたはずなのに、それに対抗する言葉も何も、私は持っていなかった。私はただ黙って首を縦に振り続け、嵐が通りずぎるのを待つ山小屋のように、ずっと静かに耐えるのだった。

「ねぇ、沙由。あなた本当にやる気あるの?」

 母が尋ねて、私が頷くと、

「でもじゃあどうしてこうも成績が悪いわけ?やる気があるなら、もっといい成績取れそうじゃない。内申だって、9や8ならいくらだって取れるじゃないの?」

 階段を降りながら、母はまだぶつくさと何か呟いていた。私はもう、怒りを通り越してあきれを感じ、何か口にすることすら億劫に思っていた。母は多分、6や7ばかりの並んだ私の内申書にショックを受けて、自分が何を言っているのかもわかっていないのだ。自分は誰でも入れるような高校に行って、留年したからって中退したのに、ずっとその事実は棚に上げている。そんな母に腹立たしい思いを感じたが、取り合ってなどくれないだろう、と心のそこで押しつぶして早く消えてはくれないだろうか、と待っている自分が卑怯にも思えた。

「明日から、・・・じゃ駄目ね。今日からちゃんと勉強すること、いいわね?」

 母の言葉に、私は黙って頷いた。それでようやく満足した母は、「じゃあ買い物に行くから」と私をほっぽってすたすた先に行ってしまった。私は母の背中が見えなくなるまで殊更にゆっくりと歩いて、それから、そっと息を吐き出した。どうしてだろう。母のやる気が燃え上がるほど、私はどんどん冷めていく。仕方ないじゃんか、と誰にともなくこぼしたくなったけれど、周りには誰の姿も見当たらなかったし、そんなことをしたら自己嫌悪の渦の中に巻き込まれてしまいそうだ、と思う気持ちが勝り、結局は口に出せずじまいだった。

 四時間目までで授業は終わり、今は吹奏楽の部員達がぽつぽつと楽器を奏でている姿が目に入るくらいで、水曜の昼だというのに校舎はひどく静かだった。ちょうど会議室の前を通り過ぎたとき、一瞬人のいる気配がしたから、誰でも入って良いのか、と思ってドアを開けた。普段はめったに使うこともないから鍵をかけて、こんなときにだけ進路資料室として使うその部屋は、よどんだ空気の中に古い机やパイプイスの埃の匂いが混じりこんでいて、どこか独特で何だか懐かしい雰囲気が漂っていた。その部屋の中に足を踏み入れたとき、もしかすると、と思っていた私の予感(というにはあまりにも頼りなく、はかないものではけれど)が見事に的中したことを知った。部屋の中には少年が一人。こちらに背を向けれはいたけれど、見間違うはずもない後姿だ。

 入ってきたときと同じように、そっーと音を立てないように扉を閉めると、気配に気がついたのか、彼が私のほうを振り向いて、目が合った。「あ、立石さんだ」と彼が呟いて、それがあまりにも自然な呟きだったから、思わずじっと見つめてしまっていた。負けずに、というのも何だか変だが、彼もじっとこちらを見つめ返してきて、なぜか見詰め合う構図になってしまったことが突然恥ずかしくなって、顔が真っ赤になるのを感じて、慌てて目を逸らしてしまった。

「え、えーと、吉村君も面談だったの?」
「ああ、うん。そうだよ。立石さんも?面談終わった?」

 私は頷いて、こんな風に彼と話しをすることができる日が来るなんて、夢みたいだと思っていた。私はすぐに、彼のその穏やかな話し方が好きになった。それでいて、その気持ちを悟られるのは大変困ることだから、とくとく言う心臓を宥めながら、なんでもない風を装って、机の上に並べられた高校の資料を眺めている振りをしていた。

 色とりどりのパンフレットの中に、私がひそかに受けてみようかと目をつけていた私立高校のものも混ざっていて、なんとなくといった感じで手に取った。校舎を背にして男の子と女の子が二人ずつ、何とも健康そうな笑顔で笑っている。高校なんて自分の実力では入れるところに行けばそれで充分だ、と思っている私には、この場所でこんな健康そうなパンフレットを眺めていること自体場違いに思えて、知らずため息が洩れてしまっていた。それが彼に聞かれてしまったようで、チラッとこちらを向いた彼は何気ない調子で、「何か悩み事?」と私に尋ねた。

「うん、まあ、そんなとこかな」

 どう答えていいのかわからずに、曖昧な笑みを浮かべてごまかしたら、彼もちょっと笑って、「ま、何も悩みのない人間なんて、なんか嘘っぽしね」といった。彼にも何か悩みがあるのだろうか、と思ったけれど、尋ねることはしなかった。正直に言うと、その頃からはっきりと彼との住む世界の違いのようなものを感じていたのだ。それは多分、どこをとっても平均並みかそれ以下でしかない私と、勉強もスポーツもできて、女子のにも人気のある彼とでは、どう考えてもつりあわないのは明白だったからなのかもしれなかった。とにかく私は、完璧な人の完璧な悩みなんて、聞きなくないと思っていたのだ。

 私が黙り込んでしまうと彼も同じように黙りこんで、何ともいえないもどかしさたっぷりの沈黙が、ちょうど会議室の上あたりに漂い始めたのを、私は感じた。何か、言わなければ、と思った。その何かは頭の中で靄のように広がっていて、それをどうにか言葉にしようと試みるのだけれども、必死に考えれば考えるほど、何の言葉も浮かばなかった。ねっとりとした不快感が喉の奥のほうに張り付いているような気がしていて、それがしきりと私の心を焦らせた。早く会話の接ぎ穂を見つけなければ、このままあっさり彼との繋がりが消えてしまいそうだったから、どうしても彼をここにつなぎとめるだけの言葉が必要だったのだ。

 そんなふうに暫くの間私は沈黙の中でもがいていた。高校のパンフレットを見終えた彼が退屈そうに伸びをして、窓のむこうへと身体を向けた。釣られて、私も窓の外へと目を向ける。どこまででも見渡せそうな晴天と、シュークリームにも似た形の白雲が綺麗な輪郭を光らせていた。

「白石さん」

 私ははっとなった。名前を呼ばれて振り返ると、真剣な表情の彼の姿が目に入った。何か言おうとして、ためらって、やめた。見かねた私が、「どうしたの?」と尋ねたら、

「いやさ、面談終わったって言ってたから、立石さんもう帰るのかなって思って」
「うん。・・・もうそろそろ、帰ろうかなぁ」

 私は仕方なく、そう答えた。本当は時間が留まってくれればいい、このままずっとこんなときが続けば良いと思って、腕に巻いた時計ばかりに、ちらちらと目が行ってしまうのをやめられなかった。今日は塾だ。早く家に帰って宿題を片付けてしまわなければいけないのだ。それなのに、どうにも塾に行ってお勉強、という気分にはなれず、私の足はとても重たい。

「あのさ、立石さんの家って、どっちの方向?」
「え、と西小のほうだけど」
「じゃあさ、・・・じゃあ途中まで一緒に帰らない?」
「え?」

 一瞬聞き間違えたのか、と思わず真面目に考え込んでしまった。そんなこと、あるわけないじゃん、と思って彼のほうを見る。彼は少しだけ慌てたように、

「ごめん。・・・嫌ならいいんだ」
「い、嫌じゃないよ、全然」

 私がぶんぶんと首を振って否定すると、彼は「本当?よかった」と言って笑顔になった。その笑顔に目を奪われている間、私の心臓の鼓動が次第に早くなっていくのを、感じていた。その時、私ははっきりと自覚したのだ。

 十一月の空はどこまでも青い。その中に浮かぶ白雲や、戯れるように飛ぶ二匹の小鳥や、白いチョークで遠くの空へと引き伸ばされた飛行機雲を、多分この先、何度も何度も、思い出すのだろう、と私は思った。

「じゃあ、帰ろっか」

 成る丈自然に聞こえるように、私はその言葉を口にした。彼が頷く。私は彼の隣まで歩いていって、会議室のドアから並んで外に出たのだった。







 外に出て、吹きつけてくる風が意外なほどに冷たくて、私は思わず身震いをした。それを見た彼が「貸してあげる」といって自分が着ていた学生服を、私のほうにさしだした。少し迷ったけど、ありがたく受け取って袖を通した。そうすると逆に彼のほうが寒いのではないか、と思い「大丈夫?寒くない?」と尋ねたら「慣れてるから」という答えが返ってきた。私はそっと隣を歩く彼の横顔を盗み見た。視線に気付いた彼がこちらを向く前に、慌てて目を逸らしてしまった。目が合ってしまうのが、恥ずかしかった。

「も、もうすぐ二学期も終わっちゃうね」
「うん。もうすぐ十一月だもんな」
「年が明けたら、すぐ受験だし。私、寒いのは苦手だから、ちょっと嫌だな」
「へぇーそうなんだ」
「うん。そうだよ」

 彼の打った相槌に、私は律儀にも頷き返した。彼は私のほうをちらっと見ると「俺、寒さには強いから」とちょっと笑った。「子どもの頃は、東北の田舎町に住んでてさ」と世間話でもするかのように、淡々と語った。

「じゃあ、冬なんかは全然寒くない感じなの?」
「まあ、ここの冬は割合暖かいから、楽といえば楽だよ」
「冬は、好き?」
「子どもの頃は大嫌いだった。向こうの冬は本当に、笑えないくらい冷えるから」

 そうなんだ、といって少し笑えた。私も冬はちょっと嫌だな、と答えると「寒いの苦手だって言ってたしね」という言葉が返ってきた。私は、嬉しかった。彼とこんな風に並んでおしゃべりをしているというただそれだけのことが、無性に嬉しかった。

 面談のおかげで短縮授業に切り替わっていたので、通学路はいつもより空いていて、知り合いにばったりと出くわすようなこともなかった。彼が一緒に帰ろうか、といったときに私が真っ先に懸念したのもそのことで、こんなところを誰かに見られたら、次に日にはもう学校中に知れ渡り(少しオーバーかもしれないが)、満足に廊下も歩けなくなってしまうと思ったからだった。

 正直なところ、彼の隣を私なんかが歩いていいのだろうか、という卑屈な考えがどうしても浮かんできてしまって、さっきから周りの視線が気になって気になって、仕方がなかった。そんなもんだ、と開き直ったり、割り切ったりすることができたなら、もう少し同道と彼の隣を歩けるのに、どうにも臆病な私は端からそんなことできないと諦めて、吹いてきた冷風に身体を縮めるようにして歩いていた。

「どうしたの?」

 私がきょろきょろと忙しなくあたりを見渡していたからどうか。彼が尋ねる。彼に落ち着きのない女だと思われたくはなかったから、私はすぐにそれをやめた。

「なんでもないよ」
「そう」
「吉村君の家は、どのへんにあるの?」
「保育園の隣にコンビニあるだろ。あの近く」

 そう言って、彼は保育園のある方向を指差した。小学校まで着いてしまったら、彼とはそこでお別れになる。少しずつ迫るこの道の先を眺めては、少し切ない感傷に浸っていた。

「でも、俺はよかったよ。こんな風に立石さんと話せて」
「へ?」
「ずっとしゃべることもできないまま、卒業しちゃうのかな、と思ってたから」
 
 私も多分、それと同じようなことを感じていたのだ。

「せっかく同じクラスに慣れたのに、そういうのって、なんか嫌じゃん」
「うん。・・・でも、ちゃんと話せたよ」
「うん。そうだね」

 あの頃、早く春になればいい、とずっと思っていた。塾のテストや、実力試験や、具体例は伴わないというのに何ともいえない暑い重力に、ずっと焦燥を感じていて、いつも何かに追われていた。でも、そんなときでも、冬の寒い日にできたぽっこりと丸い日向のような瞬間が時々あって、壊れ物のようにはかないこの季節に、色彩を加えてくれていたのだ、と今は思える。

「卒業、か・・・。ほんと、あっという間だったね」
「うん。・・・なんか、名残惜しいような去りがたいような、それでも早く飛び立ちたいよう、今、すごい複雑な気分だよ」
「あ、その感じ、分かる気がする」

 でも、あなたと会えなくなることは、すごく悲しい、とだけは、絶対にいえなかった。

 話をしているうちに、小学校まで着いてしまって、曲がり角のところで足が止まった。振り返って私を見た彼に、言った。

「吉村君。・・・私、ここ曲がるから」
「あ、そうか。じゃあ、俺ここ真っ直ぐ行くから、立石さん、気をつけて帰りなよ」
「うん。吉村君もね」

 そういって手を振ると、彼も私に手を振り返した。夢みたいな時間だったな、と私は思う。これから先、もう二度と彼とともに家路につくこともないのだろう、という確信めいたものが不思議とあって、そのことが私の心をきつくきつく締め付けていた。

「あのさ、立石さん。今日はありがとう」
「え?」
「一緒に帰ってくれて。さっきも言ったけど、立石さんと話せて、よかったよ」
「わ、私も。私も吉村君と話せてすごくよかった」

 少しはなれたところにいる彼にもちゃんと届いてくれたはずだと思う。彼は、いつもクラスのほかの女子に見せている笑顔とはまた違った方法で微笑んだ。私は「ばいばい」と叫んでから、自分の脳裏に彼の姿が刻まれぬよう、全速力で家までの道を駆けて帰った。言わなくてもいいことや、言ってしまったほうがよかったことが頭の中でぐるぐる回って、後悔した。でも、私は後悔するために走ったのだ。思いを言葉にしてみたところで、余計彼との距離に苦しむだけだと、わかっていた。

 息を切らして、空を見上げた。彼に借りた学生服がそのままだということに、そこで初めて私は気付いた。
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by sinsekaiheto | 2007-12-23 20:09

壊れ物の季節(3)


 前回からの続きですね。


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 小学生のことは、今となってはもうよく覚えていていない。

その頃から私は相当ぼんやりした生徒だったのだろう。あの頃は毎日何かしらの発見や具体的な事件があったはずなのに、頭の隅から隅まで探してもそれに相当するものは見つからなかった。代わりに、振り出す直前の雨の匂いや、薄暗い教室に灯った蛍光灯の黄色い光や、けんかをして泣いた友達の震えていた背中なら、ずっと鮮明に思い出すことができる気がする。自分が今思い出の中に生きているような気がするのは多分そのためで、そのうち体育館の中の湿った空気や、雨の日の午後の濡れた手摺りや、異性に関する噂話や、ずっと眺めていた彼の背中なんかを思い出す日が来るのだろう。と同時に、この深海の淵のような光の指さない淀んだ気分をいつでも持て余していたことを思い出して、また同じ季節が廻ってくるのだろうか、と絶望的な気分にとらわれる日が来るのだろうかとか、とりとめもなく、そんなことを考えている。

自分の部屋で明日の授業で使う教科書をカバンの中に詰めていると、机の上でマナーモードにしておいたケイタイがぶるぶる震えた。こんな時間にかけてくるのは、まず紗江しかいない、と思って通話ボタンを押すと、案の定電話は紗江からで、「生きてる?沙由」なんて尋ねてくるから、思わず苦笑してしまった。

「何よ、紗江、突然。新しいジョーク?」
「ううん。なんかさっきまでソファーでうとうとしてたら、夢を見たんだよね。沙由がストーカーに後をつけられて、ナイフで刺し殺されちゃう夢」
「うわぁ、縁起でもない夢見ないでよね」
「大丈夫だって、沙由が死んだら、ちゃんとお葬式に出てあげるから」
「こら、勝手に殺すな!」
「とまあ、それは冗談で・・・。雪穂のことで、ちょっと話があるんだけど」

 さっきまでのからかうような口調を引っ込めて、突然の真剣な口調で紗江は言った。

「雪穂がどうかした?」
「うん・・・、なんかあの子、今日ちょっと変じゃなかった。最近なんか悩んでるみたいに思うんだけど」
「そう?私は何も感じなかったな」

 私がそう言うと、「じゃあ、私の思い過ごしかな」という紗江の返答があって、でも思い過ごしなんかじゃないことを一番わかっているのは紗江自身だ、と私は思った。紗江は私たち三人の中では、一番騒がしく、いつも率先してトラブルを引き起こしてくれるけど、頭の回転が速く、口調や動作だけで相手の気持ちを読み取ってしまうようなところがあった。その紗江が、最近雪穂は何か悩んでいる、と言っているのだ。私はケイタイを握り締めて、床に放り出されたままの国語の便覧をパラパラ捲りながら彼女の次の言葉を待った。ついさっき開けておいた窓から虫の声が聞こえていて、吹いてきた風に私の短い髪の毛がサッと揺れた。

「時々、見てて不安になることって、ない?」
「雪穂のこと?」
「そう。いやな予感がするんだよね。あの子、自分のことは全然話さないじゃんか。それで自分ひとりで何か溜め込んで、動くに動けなくなって、そのままぽっきり折れたり、糸が切れるみたいにして、弾けちゃうような気がして。思い過ごしなら良いんだけど、私の勘って、時々すごく当たるから」

 紗江は思いついた言葉をそのまま並べるかのようにそう言ったけど、そこには意外なほど緻密な計算や、彼女自身が考え抜いて出した結論があるのだとわかった気がした。

「ねぇ、沙由だから言うんだけどね、雪穂の家が母子家庭だってこと、知ってた?」
「え?なにそれ、今初めて聞いた。誰に聞いたの?」
「本人から、直接。あたしだってついこないだまで知らなかったよ。なんかさ、話の流れで、そういえば雪穂は塾とか行かないの?って聞いたら、私の家、お母さんしかいないからって」

 正直、気まずかったよ、といって、苦しそうに笑った。その場にいなくて、よかったと私は思う。その場にいても、多分どんな表情をすればいいのかもわからなかっただろう。それどころか、安っぽい同情の言葉に意味は無いと知りながらも、その類の言葉を思わずかけてしまうかもしれない、と思ったからだった。

「まあ、シングルマザーなんて今じゃたいして珍しいことでもなんでもないから、その時は笑ってごまかしたけど、もし雪穂が感じているものが、そういうどうしようもないことの積み重ねで、それを雪穂が重たいって思ったとしても、私達じゃどうすることもできないって気付いてね」
「うん」
「それでも、やっぱり気になるじゃん。雪穂のこと、親友だって思うから」
「うん」

 頷くと、自分が紗江の話に耳を傾けるのに集中しすぎて、手が止まってしまっていることに気がついた。便覧を取り敢えずカバンの中に放り込んでジッパーを閉じると、もう特にすることもなくなっていた。ベッドの上に寝転がって、ただぼんやりと天井を眺めた。そこには「答え」は無いと知りながらも、浮かんでくるわけでもないはずのそれを、必死に目の奥で探そうとした。それが何に対する「答え」なのかも私にはよくわかっていなかった。

「紗江・・・」
「何?」
「雪穂なら、多分大丈夫だよ」

 何の根拠もない気休めを口にして、紗江なら笑うかもしれない、と思ったけれど、その言葉を使った私自身がなんとなく安心できたような気分になった。

「雪穂は私達が思っているほど強くもないけど、私達が思っているほど弱くもないって、私は思うよ」
「うん。・・・そだね」

 ケイタイの向こうの声がそう答えて、それ以上は会話にならなくなって、私達はどちらからともなく「ばいばい」と言って電話を切った。私はそのままケイタイを机の上に放り出して、ベッドの上で仰向けの状態のまま、目を閉じた。

 閉め忘れた窓から雨の気配を含んだ風が吹いて、今頃雪穂も少し寒いな、とか呟きながら腕をさすっているんだろうか、とかそんなことを考えた。そういえば、雪穂は「雪」なんて漢字を名前にもっているくせに、寒いだけで雪なんて大嫌いだ、といっていたことを思い出した。他にも何か彼女との思い出がなかったか、暗闇の中で必死に目を凝らしてみたけれど、なぜか頭の中に映りこむのは自分の部屋で一人震えている雪穂の姿で、どうしてもその他の情景が浮かんでくることはなかったのだ。その姿は、何だか私達にSOSを送っているようでもあって、私はさっき紗江が呟いたのと似たような種類の不安を感じた。雪穂の背中って、こんなにも小さくて、頼りなかったんだ、と私は改めてその事実に気付かされた。

 雪穂がいったい何を感じて、どんなことを悩んだり、重荷に思ってたりしているのかは、わからない。紗江だって、今は雪穂のことを気にかけているけれど、本当は自分自身の問題でつぶれそうになっているのかもしれない。私だって、そうだ。だから、誰もがみんな、大なり小なり何かを抱えて生きているのだ。

 子どもの頃、私は駄目な人間で、そのうち神さまがお怒りになってこの身体を奪ってしまうかもしれない、とそんな幼い発想の中にびくびくしていた。少し大人になった今となってはもうそんな突飛なことを考えることもなくなったけど、相変わらず私はいまだに駄目な人間で、多分困っている親友の支えにすらなってやれないと思っている。

 ベッドの上で横になっていると、まるで自分が不安定な氷の上でいつまでも揺れているような感覚に、どこまでも続く薄暗い深淵に叩きつけられたような気分になった。誰かが私にひたすら助けを求めているような気がしたけれど、私にはできない、といってかたくなに拒んだ。泣きたいような気分だった。

 そんな風に目を閉じて取り留めのない思いを廻らせていると、徐々に眠気が体全体を膜のように包み込んで、私は深い眠りの中に落ちていった。





それから何日か経った日の夜だった。

塾の帰りに寄った文房具店でちょうどなくなりかけていたシャーペンの芯を買って、家に向かって歩いていると、遠くのほうからこちらに向かって歩いてくる二つの人影が見えた。なぜだかその両方に見覚えがあるな、と思っていると、ちょうど近くまでやってきたときに街頭の光で顔が見えた。雪穂だった。隣にいるのは私達の担任で数学教師の岩倉先生で、私に気付いた雪穂は驚いたような顔で私を見て、それから困ったような視線を岩倉先生に向けた。なぜだかその視線が気になって、少し変な感じがした。

「どうしたの?雪穂」
「えーと、そこで偶然先生と会ったから進路のことを話してたんだ」
「あ、そうなんだ。どうして二人が一緒なのかなって思ったけど」
「沙由は、塾の帰り?」
「うん。そうだよ。あ、そうだ雪穂。一緒に帰ろうよ。正直一人でこの道帰るの恐いんだ」
「あ、うん。いいよ」

 雪穂が頷いて、家の方向が違うという岩倉先生とはそこで別れた。雪穂の隣を歩きながら、いつも騒がしいくらいに明るい紗江がいないと、あまり会話が弾まないな、と思っていた。ふと思い出して、ケイタイの時計表示を見てみると、夜中の十時を少しばかり過ぎたところだった。雪穂はさっきそこで岩倉先生に会ったといっていたけれど、こんな時間に彼女は何をしていたのだろう、と疑問に感じた。こんな夜更けだ。女の子が一人で出歩くような時間じゃない、と思ったけれど、なんとなくよくないことが隠されているような気がして、その理由を尋ねることは何だか恐くてできなかった。

「もうすぐ中間テストだね」

 それでも沈黙がずっと続くのは苦手で、取り敢えずどう考えたって答えが三種類ぐらいしかないその質問を口にした。こちらにチラッと視線を向けた雪穂は「あんまり」といって首を振った。「私も」と同じ口調で呟くと、街頭の光で淡く照らされた雪穂の横顔が、何か言いたそうな表情でこちらを見たのがわかったが、結局彼女は何も言わなかった。雪穂が自分から話してくれるまでまとうか、とも思ったけれど、私には、多分彼女は言わないだろう、という確信があった。日に日に冷たくなっていく夜風の中を歩きながら、虫の鳴き声が聞こえた。無理に聞きだす必要もないか、と私は思った。

「岩倉先生に、なんていわれたの?」
「え?」
「進路のことで、話してたんでしょう?」
「あ、うん。・・・あんまり良くないって」
「成績?」
「うん」

 なんとなくそんな回答が帰ってくるだろう、という予感はしていた。私だって似たようなものだと思ってそのことを伝えようかなと思ったけれど、そうすることで彼女が安心したり元気付けられたりするならともかく、余計落ち込んでしまって、二人して暗い海の中をさ迷い歩いているような気持ちになったら目も当てられない、と結局は口にしなかった。代わりに何か他のことを話して、この雨の降り出す直前のような気分をどうにかしたかったが、いまいち盛り上がりに欠けて、そもそもそういう気配りが苦手な私は、すぐさま疲れて諦めてしまった。

「なんか、悩んでるんじゃない?」

 そう呟くと、少し意識しすぎるくらいの間の後で、雪穂は私に言ったのだった。

「そんなこと、ないよ」
「本当に?」
「本当」

 雪穂は「大丈夫だから」と呟くと、今度ははっとするほど綺麗に笑って、少しだけ歩調を早くした。彼女の笑顔が私の胸に突き刺さったような気がした。一度触れたら、脆くも崩れ去っていきそうなくらい、はかなくて、悲しそうな笑顔に見えた。

「でも、なんか悩みあるんだったらさ、ちゃんと相談するんだよ。一人で溜め込んでたら、駄目だからね。私だって、紗江だって、話し聞くことぐらいしかできないけど、でも取り敢えず話し聞くことはできるんだから。
 それとか、先生に相談してみるとか、したら。岩倉先生だって、担任なんだし、多分相談乗ってくれるよ」

 そんな言葉に大した意味は無いな、と思いながらも、そう言わずにはいられなかった。

「うん。わかってるけど・・・」

 そのまま、二人の間で時の流れがすっかりなくなってしまったような長い沈黙の後、独り言のように彼女は言った。その言葉は明らかに私に向けられたものではなく、こちらに向けられいた彼女の視線も、私をすり抜け、まるで目に見えない何かを追っているかのように、私には思えた。

「でも、あの人は冷たい人だから」
「あの人って・・・?」
「え?」
「雪穂?・・・岩倉先生となんかあったの?」
「・・・ううん。なんでもない」
「・・・ゆき」
「沙由、ごめん。聞かなかったことに、してくれないかな」

 雪穂の声。はっとする程、真剣なひとみ。夜の街にはどこかでなく犬の声と、耳を済ませてやっと聞こえる虫の音と、時たま吹く風が揺らした木々のざわめきとに満ちて、私達二人の間に柔らかい空気が流れ込んだ。雪穂のその言葉に、私は紗江ならどうするだろうか、と考えた。紗江のことだ。聞かないで、なんて言ったらきっと話すまで質問攻めにするだろう。けれど、そんなことをしたって余計に雪穂が困惑するだけで、そもそも私はその先を知る資格も勇気もないと思った。だから、ただ「わかったよ」と頷いただけで、そんなものは友情でもなんでもないのだと、わかっていた。

 それでも、「ありがとう」と言った雪穂がほっとしたような表情を浮かべていて、これでよかったんだ、と私は思った。

 そうこうしているうちに、家が目の前まで近づいてきていた。まだもう少しこの道の先まで行く雪穂に、「家まで送ろうか?」と尋ねたけれど、「もう遅いからいいよ」と彼女は言って、手を振った。

「じゃあ、ばいばい」
「うん。ばいばい」

 私も胸の前で小さく手を振り返した。何もできないことなんて、わかっている。だから私のしたことは間違ってなんかいないのだ、とずっと自分に言い聞かせていた。
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by sinsekaiheto | 2007-12-14 21:35

壊れ物の季節(2)


 前回からの続きです。


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 振りあげられた彼の腕と、まるで吸い込まれるようにコートに落ちるボールを見ていると、不意に悪魔に心臓をつかまれたような息苦しさに、胸が詰まった。彼のことを考えないように目を逸らしたら、少しずつ冷静さを取り戻したけれど、鎖につながれた心臓が、彼の姿を目にするたびに膨張と収縮を繰り返し、ぐるぐる巻きにされていくのを私は感じた。取り返しのつかないことをしてしまったかのような、或いはこれからその取り返しのつかないことをしてしまうかのような不安が押し寄せてきて、上手く自分の中でバランスをとっていくことが、限りなく困難に思えていたのだ。

 体育の授業だ。私は体育館の跳び箱の上に、腰を下ろしている。男子はバレーボール。女子はドッヂボール。運動神経なんてものにはとうに見放されている私は、早くもコートの中から追い出されて、体育館の隅でただ足をぶらぶらさせて、二手に分かれた体育館の向こうのほうに広がる景色を、ぼんやりと眺めていたのだった。

 彼のところまでボールが回って、バン、という軽快な音とともに、またボールはコートへと吸い込まれていった。私はまた、耐え切れなくなって目を逸らす。心臓の鼓動が少し早くなったような気がして、息苦しい。焦りばかりが、募っていた。後何ヶ月残っているのだろう、と思い指を折りかけて、やめた。そんなことをしたって、この先残された時間の流れが止まってくれるわけでもなく、もしたとえそうなったとしても、今の私には二人の間の隔たりを劇的に縮めることなんて逆立ちしたってできそうもない芸当だから、私は苦しさに紛らわしたため息を吐いて、そのままそっと目を閉じた。

 考えてみれば、私は男の友達がひとりもいない。

 流石に世間話をする程度の友達なら何人かいるが、それ以上となると教室中を見渡しても、どこにも見つけることができなかった。輪になって楽しそうにおしゃべりに興じている女の子の中にならなんとか混ざりこむこともできるのだが、男子生徒と笑顔で言葉を交わす、なんてことになると、そうしている自分を想像することすらできなかった。友達の中には彼氏を作り、休日のたびにデートに繰り出しているような子もいたが、あおり文句の詰まった雑誌ですら理解するのが億劫な私には、、パタンと閉じた雑誌同様、どうにも現実感の湧かない世界だった。

 だから、中学一年生の頃からずっと、自分は恋をしない人間なのだ、と私は勝手に思い込んでいたのだ。

 朝、教室に入ってから、挨拶すべきかどうかで、迷う。彼の姿を視界の端で捕らえながら、今度こそ、と握りこぶしを固めているというのに、いざ彼が目の前を通り過ぎる時には、脳内のあらゆる機関が全部まとめてストライキを起こしてしまったように、私は馬鹿みたいに突っ立っている。「おはよう」というそのたった四文字が、一向に前へと出てこない。私は、泳ぎ方を忘れた魚のように、飛び方を忘れた小鳥のように、座ることなんかも全部忘れて、突っ立っている。チャイムが鳴って、ようやくぎこちなくだけれども、動き出して席に着く。

 体育館の中の騒音、とりわけ女の子のワーキャーいう歓声が遠くなった。自分の心がひどく冷たくなっていることに、今さら気付いた。やっぱり、きっぱり諦めようか、とも思う。「後悔だけはしちゃいけないよ」と羽須美さんは言ったけれども、もしこの先何も考えずに猛進したところで、後悔なんかよりももっと重たい、それこそ私の手には負えないようなものを押し付けられそうで、すごく恐かった。

「さーゆー」

 気がつけば、目を開けたままどうやらぼんやりとしていたらしい。下を見ると隣のクラスの女の子の梶谷夏美が不思議そうな表情で、私の顔の前で上下にひらひらと手を振っていた。

「あれ?夏美?」
「沙由、どうしたの?ぼんやりしちゃって」
「・・・、私、そんなにボーとしてた?」
「そうだよ。目開けたまま、眠ってんのかと思った」
「そんな大袈裟な」

 私が笑うと、夏美もクスリと少し渡って、私の座っている跳び箱へと飛び乗った。私の隣に腰を下ろすと、

「堂々とサボるなぁ、沙由は。この分だと、確実に内心に響くよ」
「そうかもね。あ、先生こっち睨んでる」

 そうは呟いてみたものの、今さらドッヂボールに戻るのも面倒で、多分その気持ちは夏美も同じなのだろうと、チャイムがなるのをひたすら待っているだけだった。ドッヂボールはだらだら続いて、決着もまだまだつきそうにない。向こうの隅には平均台にもたれかかった少女が二人、私達と同じような退屈そうな目でゲームのゆくえをぼんやりと見ていた。

「ねぇ、さっき何を見てたの?」

 突然夏美が私にそう尋ねた。

「え?何って・・・」
「いや、なんかぼんやり男子のバレー眺めてたからさぁ、誰か気になる人のでもいるのかな、と思って」
「・・・やっぱり、そんな風に見えた?」
「うん、まあ、かなり」
「・・・でも、どうなのかな、本当のところ」
「何がよ?」
「いや、正直自分でもよくわからなくて」

 これが教室で、紗江や雪穂と話しているときだったなら、きっと否定していたと思う。紗江も雪穂もいい奴ではあるが、そういう類のゴシップに飢えているから、少しでもそんな素振りを見せようものなら、「どこのどいつだ」と根掘り葉掘り、私が疲れ果てて口が利けなくなるまで質問攻めにするだろう。その点、夏美は付き合っていてとても楽な相手だった。「そういうこともあるかな」と呟いて、それ以上は尋ねてこようとはしなかった。

 トスが上がって、彼のスパイクが相手コートに見事に決まった。私はそっと息を吐き出して、吸い込まれてゆきそうになる視線を無理やり彼から引き剥がした。眺めないようにするのは意外なくらい簡単だけど、次に彼の姿を目にしたときにものすごい力で私は彼に縛られる。それは、とても苦しいことのはずなのに、一度それに支配されてしまったら、容易には抜け出すことなど、できなかった。

「ねぇ、夏美は、誰か気になる人とか、いないの?」

 男子のバレーを眺めて、一瞬なぜか切なそうに表情をゆがめた夏美の横顔に、私はそんな言葉をぶつけた。

「うん、いるよ。多分」
「多分?」
「そう、多分。沙由と同じだよ。正直自分でもよくわかんない」

 体育館に響き渡る、笛の音。それが試合終了に合図だったようで、それまではある程度引き締まっていた男子達の表情も一気に緩んだ。結局、十点以上の点差をつけて、試合は彼のチームが勝利を収めた。

「相手はね、幼馴染」

 さっきまでとは違うチームがコートに入って、また試合が始まった。

「・・・そうなんだ」
「そう。・・・多分、近くにいすぎたんだと思う。一緒にいる時間が長すぎたから、これが本当に私の感情なのか、それとも誰か別の人の感情が混ざりこんでいるのか、わかんなくなって」
「別の誰か、って?」
「田辺祥子」

 夏美は、彼女と同じクラスの少女の名を挙げた。可愛くて、目立つ子だし、私も何度か話をしたことはあったが、そういう男女の噂話に限りなく疎い私には、彼女がどうして田辺祥子の名を上げたのか、わからなかった。

「苦しいんだ」
 
 夏美は呟いた。私はそんな夏美の横顔を見ていたら、なんとなく少し、不安になった。

「・・・ねぇ、夏美。私、そういう話には全然強くないよ。相槌だって、上手く打てないし」
 
 私が思わずそういうと、夏美は目を丸くして、それからあっさりとした笑顔を浮かべた。

「やっぱり、沙由はおもしろい子だね」

 おもしろい子というところには、正直あまりぴんと来なかったが、夏美という少女に自分がどんな風に思われているのかがわかった気がして、それが少しおかしかった。

「別に、相槌なんて打たなくていいから、ちょっとだけ話しても、いいかな?・・・苦しいの。なんか、いろいろと。一緒にいた時間が長すぎて、何をやっても何を言っても、素直になんかなれないから、言わなくてもいいことも言ってしまうし、このまま一緒にいれば、なんか取り返しのつかないことをしてしまいそうで、ちょっと恐くて」

 夏美は、それまで溜め込んでいたものを少しずつ吐き出していくかのように、ポツリポツリとそう語った。私はただ黙って、夏美の言った「取り返しのつかないこと」について考えていた。それは、私がさっきまで感じていた取り返しのつかないことに対する不安なんかとは、やはり根本的に違うように感じた。そもそも、取り返しのつかないことなんて、あまりにも漠然としすぎた言葉だから、考えたって仕方ないのに、どうして私達はこうも不安になってしまうのだろう、と私は思った。

「多分、大丈夫だよ」

 だから、やすっぽい慰めの言葉で終わることを承知してても、そんな言葉しかいえなかった。

「多分?」
「・・・うん。取り返しのつかないことなんて、そうそう転がってるものじゃないと思うし」

 私が言うと、夏美はまじまじと私を見つめて、それからおかしそうにあははと笑い声を上げた。

「やっぱり沙由って、おもしろいよね」
「え、そう?」
「うん、そうだよ。相槌打つのの下手とか言って、別にそんなことないじゃない」

 それは正直にけっこう嬉しい言葉だったので、夏美に釣られてちょこっと笑った。たまには授業をサボってこういう風におしゃべりするのも悪くないか、と思った。

「でもね、私にだってあるんだよ。そういう風な気持ちになることが」
「え?」
「だから、取り返しのつかない、こと」

 今度は彼のチームが審判だった。私は彼じゃない別の誰かを目で追ったけど、すぐに自分に嘘をついているかのように感じて、やめた。

「ふーん、そうなんだ」
「ねぇ、夏美。今まで話したこともなくて、これからも話せそうにない男の子に気持ちを伝えるのって、どうすればできると思う?」
「なにそれ、なぞなぞ?」
「いや、なぞなぞじゃなくて、ただのたとえ話だけど」
「ふーん・・・」

 夏美が何かを考え込むように黙り込んだから、二人の間の会話がふっと途切れた。ドッヂボールの決着はまだつかない。両チームとも決定的な戦力にかけるからか戦況はさっきからずっと膠着したままだ。それに女子は男子と比べると随分人数も多いから、きっとこのままチャイムがなるまで決着がつくこともないだろう、と安心して足をぶらぶらさせている。

「素直になるしか、ないんじゃないかな」

 夏美が言った。それは先程の私の問いに対する答えのつもりだったのだろう。私は、そっと夏美の表情を盗み見た。彼女は相変わらず男子生徒たちのバレーボールをつまらなさそうに目で追っていて、私にはそれが、夏美がわざとそうしているようにも、感じられた。素直になれ、か。でも、素直にならないといけないのは、私なんかよりもむしろ、夏美のほうじゃないのかな、と私は思った。

 




 刻々と迫る冬の気配に、私の前に広がっていく「未来」かそれに似た何かが次第に浸食されていき、気配だけで、それがどうにもならない深い暗闇に閉ざされていくのを、私は感じた。そのことに焦燥感を抱きながらも、段段と灰の色を帯びていく季節にどっぷりと浸ってしまっていて、空回りばかりする感情を押し殺し、何とかそのくらい淵から抜け出そうと手探りしているような、そんな日常を繰り返している。

 塾を通して受けた外部模試の結果があまりにも凄惨で、そのことを親に告げる勇気も出ないまま、自分の机の中にしまいこんだ。半分以上が斜線で消されたカレンダーの今日の日付に、赤でもう一本線を加える。後三日で十月も終わるというのに、机の上に散らばったマンガ本や色ペンなんかを見ていると、体の隅々から寄せ集めたせっかくのやる気も見事にそがれて、私は電気を消して部屋を出た。

 誰もいない廊下を通って玄関から外に出る。リビングの壁時計が六時を指して、日の沈んだ住宅街の中を自転車で走り抜けていった。勉強もせずに、こんな時間に家を抜け出していることが母に知れたら、またぶつぶつ小言を言われるに決まっていたが、今日は会社の飲み会で帰りが遅くなることを知っていたから、何の心配もせずに私は自転車をこいでいる。

 羽須美さんの家に行こうかと思って、そちらの方向に自転車を走らせていたけれど、途中で気が変わってUターンした。少し意固地になっていることに気付いて、のろのろと流れる景色の中で、惰性でペダルを踏み続ける自分自身に苛立ちを覚えた。適当に目に入った書店に入り、使いもしない参考書を棚から引っ張り出しては戻し、また引っ張り出してはもう一度戻す、という作業を繰り返しては、本当の自分ってなんだろう、なんて冗談以外では口にできないことを深く考え込んでしまっていた。

 母がいつの間にか教育ママとしての気質を発揮させ、私の行動にあれこれと文句を言い、干渉しだしたのは、羽須美さんによるところが大きい、と私は思っていた。羽須美さんが学区内の有名進学公立高校に入学して、見事偏差値の高い大学へ滑り込んだことがよっぽど彼女を刺激したようで、もしかしたら私の娘も、なんてくだらない妄想を抱いてしまい、私にも「同じ高校を受験しろ」と強制するのだ。特に悪いというわけではないが、飛びぬけたところのない私の成績表とにらみ合って、ここはこうだとかあれがどうだとかうるさく言う母のせいで、どこかその辺の、自分の実力に見合った私立高校にでも行こうと思っていた私のモチベーションは下がりに下がった。羽須美さんみたいになれるわけがないことは分かりきったことだというのに、母から押し付けられる無理難題にぶつかる度に、いつも羽須美さんと比べられているような感じがして、悲しいよりも苦しいよりも、ずっと切ない気持ちを味わってきた。

 参考書ばかりが並んだ棚にいつまでも突っ立っていたって、いかにも受験生的な気分に白けるだけだということに気付き、数分店内をうろついた後、何も買わずに店を出た。できるだけ明るい場所を選んで通って、駅前のレンタルショップまで自転車で走った。店に入ると、店内には最近はやりの歌手の曲が流れていて、そういえば暫くCDを聞いていなかったことを思い出した。

 店の隅のCDのコーナーのランキングには、上位に上がれば上がるほど、私の知らないグループ名或いは歌手名がランクインしていて、いつの間にかこんなにも流行から取り残されていたことを知った。CDを聞くかわりに昔集めたマンガ本を片端から掘り出しては読み進め、自堕落な生活の中にどこまでも落ちていけそうに感じていた、秋の終わり。そんな風な日常は、無常にも前に進むことしか知らないようで、このまま流されるまま漂っているほうが楽だろう、と思い始めていた。その後、どこにたどり着くかまでは知らないけれど。

 そんなことを考えながら、半年くらい前までよく聞いていたアーティストの曲が三位にランクインしているのを目にし、借りる気もしないのに、なんとなくといった感じで手にとった。

 その時、近くで「あれ」という声が聞こえたような気がして、ふと声のしたほうに視線を向けた。

 私は驚いた。私服姿の彼がそこにいたのだ。

 一瞬そこにいるのが誰なのかわからなかった。彼の私服姿を見るのが初めてだったからわからなかったのか、それとも彼の背中ばかり見ていたからかもしれない、と私は思った。実際の彼を目の前にして、私はどんな顔をしてよいものか咄嗟にはわからず、さぞかし間抜けでおかしな表情をしていたのだろう。

「ええ、と、立石さん?」

 彼が私の苗字を呼んで、私は小さく頷いた。名前、覚えていてくれたんだ、と一瞬嬉しく思ったけれど、すぐに当たり前か、と思い直した。いくら話をしたことがないと言ったってもう半年以上も同じ教室で授業を受け続けているのだから、名前なんて覚えていて当然なのだ。

「珍しいね、こんなところで会うなんて」
「うん。吉村君は・・・CDか何か、借りに来たの?」

 話しかけられたからには沈黙はまずいだろう、と思い何か話題はないだろうか、と探してみたが、それを見つけるには私はあまりにも彼のことを知らなかった。取り敢えず当たり障りのないことを尋ね、私はその場をごまかした。

「いや、ちょっと気分転換にでも、って思っただけだよ」

 「あたしも」と口を小さく動かしては見たけれど、彼には聞こえなかったみたいだった。私は多分明らかに緊張していたのだと思う。それを意識し始めたとたん、今まで何も感じていなかったのが嘘のように、苦しいくらいに胸の鼓動が高くなった。顔が馬鹿みたいに赤くなっていくような気がして、彼にそれを悟られてしまうのもいやで、ずっと視線を逸らしたまま、彼の服の茶色いボタンばかりを、見つめていた。

「立石さんは?」
「え、あたしは・・・。あたしも気分転換」
「ふうん、そうなんだ」

 彼が呟く。わたしはさっきのCDをまだもっていたままだということに気付いて、慌ててもとの棚に戻した、それを見ていた彼が、

「サザンとか、聞くんだ」
「え?あ・・・うん」

 けっこう好きだよ、サザンオールスターズ。そう言おうと思ったけれど、カチカチになってしまったまま、声が出なかった。情けない、と私は思った。

 その時、彼のポケットからケイタイの着メロが聞こえてきて、「ちょっとごめん」といって彼はケイタイを耳に当てた。CDも元に戻して、もうすることのなくなった私は、ずっと近くにいて彼に盗み聞きをしていると思われてもいやだと思い、そっと彼のそばを離れた。店を出るときに振り返ってみると、私の視線に気付いた彼が、小さく手を振っていた。私は驚いて、ぎこちなくだが手を振り返す。「ばいばい」と心の中で呟いて、自動扉をくぐって外に出た。

 腕にはめた時計を見ると、もうすぐ七時になるところだった。家に帰って、弟のごはんをつくってあげないと、と思い強くペダルを踏み込むと、どこからが吹いてきた秋の風が、少し汗ばんでいた首筋に心地よく感じた。
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by sinsekaiheto | 2007-12-07 13:33

VSレトルトカレー  のち小説


 こんばんは、HOMAです。

 昔はここに少年をくっつけてHOMA少年、と名乗っていたのですが、ふと少年と名乗るのもおこがましいかと思い、自制している今日この頃です。

 さて、今日の昼飯の話。

 
 父がレトルトカレーを毎日のように空を尻目に、自分は黙々と他他のご飯を食べる日々が続いています。日に日に、レトルトカレーを食いたいという欲望は高まっていきます。そして、ついに記念すべき今日のこの日に、その欲望はかなえられたのです。


 テスト前よって、早めに家に帰ってくる。今日のこの日を私は待っていた。おもむろに床下貯蔵庫からレトルトカレーの箱を取り出し、味を確認する。「甘口、うむ。いける」実はこれが一番重要な作業であった。

 次に片手なべにどぼどぼとおゆーを注ぎいれる。ここでHOMAは欲張ってたっぷりとおゆーを注いでしまった。気にしなかったことにして、火にかける。人間、思い切りが大切である。



 さぁ、沸騰、というところで潔くどぼんとレトルトカレーの銀の包みをおゆーの中に送り出す。ここでなみだを呑んではいけない。ためらってもいけない。すべてはスピードが重要なのだ。


 ぐつぐつとあぶくが少しずつカレーを温めていきます。時間も忘れて、そのすばらしい気泡に見とれます。


 さて、私が使っている片手なべは小さくて、このままでは上の方が温まらない、と判断したHOMAはおもむろに箸を取り出した。そして、ぐいぐいぐいと可愛いわが子をおゆーの中に沈めていく。許せ。


 その時だった。突如として起こった火山噴火のように、ぶくぶくと水が膨れ上がって、片手なべの外へと溢れ出したのだ。あたふたするHOMA。ええい、しずまれーい。しずまれーい。しかし一向に収まらない。火力を弱くしてもどうしようもない。うんぬ。これはたたりなのか。はたまた可愛いわが子を虐待した私に当たった罰なのか。溢れ出した水はジュワジュワと音を上げて蒸発し、煙に変わって立ち上っていく。


 あ、そうだ。


 ここで画期的なことを思いついたHOMA。

 おゆーだ。おゆーを捨てればいいんだ。



 とぼぼぼおぼぼぼ


 かくして、HOMAVSレトルトカレー、だいして、辛カレーの乱は鎮められた。めでたしめでたし。


 

 くだらないことを書いてしまった。次からは小説です。↓



 『壊れ物の季節


 
 
 気がつくと、いつも彼を目で追っている。

 受験が近づくにつれて少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった三年五組の教室の窓際の席から、ぼんやりと見つめていた、彼の背中。進まないノート。教師に指名されて初めて、もう二十分も授業に取り残されていたことに気がついた私が、「すみません、聞いてませんでした」と答えると、教師は教室中を見渡して、机に突っ伏し眠っているもののあまりの多さを嘆き始めた。私は再びシャープペンシルを握りなおして、黙々と黒板の文字をノートに写し取った。中学三年の、夏の終わりだった。クーラーのない蒸し風呂のような教室の中に、時々思い出したかのように、セミの声がじわりじわりと聞こえていた。

 チャイムの音が鳴って、教師が教室を立ち去ると、そこにはいつもの喧騒が舞い戻ってくる。私は乱雑に並べられた机の間を縫って、二人の少女が立ち話をしているところまでたどり着いた。雪穂と紗江。二人は私の親友だった。

「ねぇ、沙由。あたし昨日の塾のテスト散々だったよ」
「あ、紗江も?あたしもだよ。社会が全然」
「沙由はいいよ。どれもまあまあできるんだし。ね、雪穂」
「でも、紗江だって、社会と理科得意じゃん」
「駄目駄目、あんなの。学校の試験のときだけじゃん。実力が伴ってないんだよ」

 そこまで言うと、雪穂ははぁっと息をはいた。

「ああ、もう。受験ってしんどい。勉強はしないといけないし、休み時間も模試だテストだって話でつまんないし。ねぇ、たまには男の子の話でもして、わーキャー言って盛り上がりたいよ」
「あ、そういえば紗江、この前告られたって言ってた二つ上の先輩とはどうなったの?」
「どうもこうもないよ、あんな奴。ねぇ、信じられる?初めてのデートでいきなりキスしようとするから、腹に一発蹴りいれて、それっきりよ」
「うわぁー、紗江、女の子が蹴りいれるなんて、駄目だよ」
「ねぇ、そっちのほうが信じられないよ」
「何それ。あのね、上品に生きて至って、結局は損するだけなんだからね。二人とも大阪のおばちゃんを見習いなよ」

 紗江の無茶苦茶な言葉に、私達は苦笑を浮かべていた。

「そんなことより、沙由はどうなのよ。気になる人の一人や二人、いないの?」

 突然話の矛先がこちらに向いて、私は自らの動揺を悟られないように、きわめて自然な作り物の笑顔を貼り付けた。「いない、いない」と首を振ると、さっきまで見ていた彼の背中をまた頭の中で見たような気がして、二人に気取られてはいけない、と思って少し俯き加減に下を向いた。

「あやしい」
「あやしい、あやしい」
「絶対になんかあるよね、これは」
「うん。あるある」
「だから、何もないってば」

 私が二人をどうあしらおうかと考えていると、ちょうどよいタイミングでチャイムが鳴った。「あ」「あーあ、残念」と唇を尖らせる二人に向かって、にっこり「ばいばい」と手を振って席に戻った。席に座って、外から戻ってきた彼の姿を見つけると、何だか感情に酔ったような心地がして、思わず何もかも話してしまいたいような衝動が私を襲った。でも、この思いはやはり誰にも知られずに守っていたい、という背反する思いが私の中には存在していて、私にはどうして良いのかもわからなかった。

 そもそも、これが果たして恋などという類のものなのかも、私には判然としなかった。「恋」だなんて言ってしまってから、実はそれは何かの間違いでした、なんてことになったら、それはあまりにも、そうあまりにも情けなさ過ぎることだから。

 教師がやってきて、またぼんやりと過ぎる私の五十分が始まる。

 私は、彼の背中に目をやった。

 吉村浩平。半年間同じクラスで一度も口を利いたことがなく、あの頃の私が一番話をしたいと思っていた、男の子だった。









 ゆっくりと過ぎる季節に、もう充分すぎるくらいうんざりしていたところだった。

 羽須美さんの家のソファーに腰掛けて、ゆっくりと右から左へ流れて行く雲なんかを見ていると、のろのろとしか動いてくれない季節に対して、ちょっとした苛立ちを感じ始めた。もう九月になったというのに、少しも下がる気配のない天気予報の最高気温も、鳴きやんでくれないセミ達の声も。秋になれば、と無意識にそう願っているもう一人の自分がいて、そのもう一人の私に任せてさえおけば万事が上手くいくような気がして、だから私はのろのろと動く雲を眺めては早く過ぎてくれないだろうか、とそっと息を吐き出す日々を送っている。

 季節が、もっと早く過ぎてしまえば良いと思う。でも、その反面、このまま一年が過ぎてしまえば、もう彼と話すチャンスもなくなってしまうとわかっていて、その事実は私の心を苦しめた。このまま、一度も話をすることもなく、卒業式を迎えてしまうのか、と思えば、身を裂くような焦りに駆られる。ワンセンテンツ、いや、たった一言だけで良い。たった一言彼に声をかけるというそれだけが、どんな難関私立高校に合格するよりも困難なことに、思えていた。

「沙由ちゃん、ジャスミンティー入ったよ。お茶にしようか」

 キッチンのほうから羽須美さんの声がして、いつも通りリビングへ向かうと、湯気の立つティーカップが二つと、綺麗に切り分けられたショートケーキが二皿、テーブルの上においてあった。羽須美さんがCDプレイヤーの再生ボタンを押して、優雅なクラシックの音楽が流れ出した。

「ほら、あそこの角を曲がったところに、風味堂っていうケーキ屋さんあるでしょ。今日は久しぶりにあそこでケーキかってみたんだけど」
「へー、風味堂かぁ。おいしそう。いただきます」

 苺の部分をさっくりと切って、口に運ぶ。クリームの甘味とイチゴの酸味とが混ざり合って、ケーキはとても美味しかった。ジャスミンティーも本格的で、独特の風味をかもし出している。

「どう、沙由ちゃん。受験勉強ははかどってる?」
「うん。・・・がつんがつんに煮詰まってるよ」
「はは、そうなんだ、駄目じゃん全然」

 初美さんはからっとした笑顔を浮かべて、私を見た。ああ、いいなぁ、とその笑顔を見る度に私は思う。こんな風な笑い方で、自然な笑みを身につけることができたなら、私だってもう少しくらいスマートに生きることができるのに、と。いつの日からか、羽須美さんは私の憧れの人になっていた。一人暮らし、大学二年生。こんな風な聡明で美しい女になりたい、と私はずっと憧れを抱いていたのだった。

 いとこなのに、血だっていくらかは繋がっているはずなのに、彼女と私の違いといったら月とすっぽんで、羽須美さんのようになりたかった。蝶にあこがれる芋虫のように、ずっとそう思っていた。

「一学期のテスト成績悪かったから、私あんまり内申もよくないんだ」
「うーん、でもまだこれからだよ。本当の勝負はここからなんだから。気を抜いちゃ駄目だよ」
「うん・それはわかってるんだけど、でも、なんかすごく疲れる。プレッシャーがすごく重くて、もう押しつぶされちゃいそう」
「ふうん、大変だねぇー。受験生ってのは」
「あ、羽須美姉ちゃん、人事だと思って」

 私がふくれて口を尖らせると、羽須美さんはおかしそうにけらけら笑った。

「じゃあさ、人事ついでに、一ついいかな?」
「何?」
「確かに今は辛いと思うよ。親も先生も勉強勉強って、うるさいだろうしね。でも、それで全部投げ出しちゃったら、駄目だよ。後から後悔しても、遅いからね。あのとき、ああしておいて本当によかったな、って思うぐらい頑張ってみな。、話はまず、そこからだよ」
「・・・うん。それはわかるけど」
「だーいじょうぶだって、沙由ちゃんならさ。なんとかなるなる」

 根拠も何もないというのに、羽須美さんの言葉を聞いてるうちに、本当に何とかなりそうな気がしてきて、我ながら調子のいい奴だ、とジャスミンティーを口にしながら、呆れていた。

「あー、でも、受験か。いいなぁ、懐かしいな。友達と成績見せ合ったりするんでしょ。ああ、そういうのって、なんだが青春って感じだよね」

 何気なく羽須美さんの漏らした一言が理解できなくて、私が頭にクエスチョンマークを浮かべて羽須美さんの顔を見ていると、

「ま、沙由ちゃんにはわかんないと思うけどね。中学生の頃の私なんて、パッとしない生徒だったから、自慢できることって言えば勉強くらいなものだったしね。だから、そんな風に思い出したりするんだろうけど」
「え?羽須美姉ちゃんってパッとしない生徒だったの?嘘だぁ!」
「何言ってんのよ。嘘ついてもしょうがないでしょ。私をなんだと思ってるのかねぇ、この子は」

 羽須美さんは私のほうを見て、あきれた風な表情を見せた。

 羽須美さんがパッとしない生徒だったなんて、俄かには信じられなくて、そういえば羽須美さんの中学生時代の頃の話はあんまり聞いたことがないということに、私は気付いた。羽須美さんにも、私と同じ中学生だった時代がちゃんとあったのだ、という当たり前の事実が今さら押し寄せてきて、どういう青春時代を送ったのだろう、と私は思った。

「ねぇ、羽須美さん。羽須美さんは、中学のとき、恋とかしてた?」

 ふと気になって、そう尋ねた。「え、なんか唐突だなぁ」と羽須美さんは目を丸くした。

「そりゃあね、恋ぐらいするわよ、私だって」

 髪をさらりと掻き揚げる仕草を羽須美さんが見せて、なんだか女の私でも、ドキッとしてしまった。

「ど、どんな恋だったの?」
「うーん、どんなって言われてもなぁ。地味なつまんない恋だったよ。しゃべったこともなかった男のこのことを好きになってね。それで、ずっと遠くからその人の背中ばっかり眺めてた。うん、取り立てて騒ぐほどのこともない、平凡な恋だったよ」
「喋ったこともない、男の子に?」
「そうよ。何でだろうね。クラスの人気者だったとか、ものすごくハンサムだったとか、そういうわけじゃなかったのに、初めは、ただなんとなくで好きになった」

 今、羽須美さんはその男の子の背中を思い出しているのかもしれない、と私は思った。そして私も、彼の背中を頭の中に描いていた。羽須美さんが私と同じような恋をしていた、ということも驚きだったが、私にはそれから先、二人がどうなったのかということのほうが気になっていた。

「それで、その後どうなったの?」
「別に、何もなかったよ。パッとしない生徒だったって言ったでしょ。自分から話しかける勇気なんて、とてもね、持てなかったわよ」
「本当に?」
「ほんとうに」
「なんだ、つまんないの」

 できるだけ、不自然になってしまわぬように、上手に笑えたと思う。「ま、そんなもんじゃないかな、中学生の恋なんて」と羽須美さんはあっさりとした口調で言った。

「あ、でもそう言えば、卒業式の日にね、ずっと好きでした、第二ボタンください、って頭下げてね。その時の第二ボタン、まだどこかに残ってるんじゃないかな」
「へぇー、いいなぁ。第二ボタンか?」
「何々。沙由ちゃんも第二ボタンがほしい人いるんだ」
「うーん、どうかなぁ。まだわかんないけど。・・・うん、でも、もらおっかな」

 私はそういって、お皿の中に残っていたケーキの一欠けらを口の中に放り込んで、「ご馳走様でした」と手を合わせた。

「ふーん。恋してるんだ」
「え、やだ、羽須美さん。そんなんじゃないよ」

 羽須美さんが余りにさらっとその言葉を口にしたので、思わず私のほうが赤くなってしまっていた。

「ふーん、違うんだ」
「そうだよ。ただ、なんとなく、気になるだけで・・・」

 修学旅行の夜の打ち明け話でも、ちゃんと自信を持って答えることができないくらいの、そんな淡い感情なのだけど。

「そっか、でもね、人はそれを、多分恋っていうんだろうね」

 羽須美さんが何気なく呟いたその一言に私は「うん」と頷けずにいた。もし、それが恋だとしたら、いったい私には何ができるのだろう。そっと、遠くから眺めているだけでは、駄目なのだろうか。卒業式の日に第二ボタンを、もらうなんて芸当は、とてもじゃないができないと思った。

「でも、まぁ、後悔だけはしちゃいけなよ」

 まるで口癖のように、何かにつけて彼女はその言葉を繰り返した。でも、このままいったら間違いなく後悔することになるのだろう、と私は思う。それでも、何か良い方法が思い浮かぶわけでもなく、ただ黙って首を縦に振っただけだった。
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by sinsekaiheto | 2007-12-04 14:04 | 日記