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壊れ物の季節(2)


 前回からの続きです。


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 振りあげられた彼の腕と、まるで吸い込まれるようにコートに落ちるボールを見ていると、不意に悪魔に心臓をつかまれたような息苦しさに、胸が詰まった。彼のことを考えないように目を逸らしたら、少しずつ冷静さを取り戻したけれど、鎖につながれた心臓が、彼の姿を目にするたびに膨張と収縮を繰り返し、ぐるぐる巻きにされていくのを私は感じた。取り返しのつかないことをしてしまったかのような、或いはこれからその取り返しのつかないことをしてしまうかのような不安が押し寄せてきて、上手く自分の中でバランスをとっていくことが、限りなく困難に思えていたのだ。

 体育の授業だ。私は体育館の跳び箱の上に、腰を下ろしている。男子はバレーボール。女子はドッヂボール。運動神経なんてものにはとうに見放されている私は、早くもコートの中から追い出されて、体育館の隅でただ足をぶらぶらさせて、二手に分かれた体育館の向こうのほうに広がる景色を、ぼんやりと眺めていたのだった。

 彼のところまでボールが回って、バン、という軽快な音とともに、またボールはコートへと吸い込まれていった。私はまた、耐え切れなくなって目を逸らす。心臓の鼓動が少し早くなったような気がして、息苦しい。焦りばかりが、募っていた。後何ヶ月残っているのだろう、と思い指を折りかけて、やめた。そんなことをしたって、この先残された時間の流れが止まってくれるわけでもなく、もしたとえそうなったとしても、今の私には二人の間の隔たりを劇的に縮めることなんて逆立ちしたってできそうもない芸当だから、私は苦しさに紛らわしたため息を吐いて、そのままそっと目を閉じた。

 考えてみれば、私は男の友達がひとりもいない。

 流石に世間話をする程度の友達なら何人かいるが、それ以上となると教室中を見渡しても、どこにも見つけることができなかった。輪になって楽しそうにおしゃべりに興じている女の子の中にならなんとか混ざりこむこともできるのだが、男子生徒と笑顔で言葉を交わす、なんてことになると、そうしている自分を想像することすらできなかった。友達の中には彼氏を作り、休日のたびにデートに繰り出しているような子もいたが、あおり文句の詰まった雑誌ですら理解するのが億劫な私には、、パタンと閉じた雑誌同様、どうにも現実感の湧かない世界だった。

 だから、中学一年生の頃からずっと、自分は恋をしない人間なのだ、と私は勝手に思い込んでいたのだ。

 朝、教室に入ってから、挨拶すべきかどうかで、迷う。彼の姿を視界の端で捕らえながら、今度こそ、と握りこぶしを固めているというのに、いざ彼が目の前を通り過ぎる時には、脳内のあらゆる機関が全部まとめてストライキを起こしてしまったように、私は馬鹿みたいに突っ立っている。「おはよう」というそのたった四文字が、一向に前へと出てこない。私は、泳ぎ方を忘れた魚のように、飛び方を忘れた小鳥のように、座ることなんかも全部忘れて、突っ立っている。チャイムが鳴って、ようやくぎこちなくだけれども、動き出して席に着く。

 体育館の中の騒音、とりわけ女の子のワーキャーいう歓声が遠くなった。自分の心がひどく冷たくなっていることに、今さら気付いた。やっぱり、きっぱり諦めようか、とも思う。「後悔だけはしちゃいけないよ」と羽須美さんは言ったけれども、もしこの先何も考えずに猛進したところで、後悔なんかよりももっと重たい、それこそ私の手には負えないようなものを押し付けられそうで、すごく恐かった。

「さーゆー」

 気がつけば、目を開けたままどうやらぼんやりとしていたらしい。下を見ると隣のクラスの女の子の梶谷夏美が不思議そうな表情で、私の顔の前で上下にひらひらと手を振っていた。

「あれ?夏美?」
「沙由、どうしたの?ぼんやりしちゃって」
「・・・、私、そんなにボーとしてた?」
「そうだよ。目開けたまま、眠ってんのかと思った」
「そんな大袈裟な」

 私が笑うと、夏美もクスリと少し渡って、私の座っている跳び箱へと飛び乗った。私の隣に腰を下ろすと、

「堂々とサボるなぁ、沙由は。この分だと、確実に内心に響くよ」
「そうかもね。あ、先生こっち睨んでる」

 そうは呟いてみたものの、今さらドッヂボールに戻るのも面倒で、多分その気持ちは夏美も同じなのだろうと、チャイムがなるのをひたすら待っているだけだった。ドッヂボールはだらだら続いて、決着もまだまだつきそうにない。向こうの隅には平均台にもたれかかった少女が二人、私達と同じような退屈そうな目でゲームのゆくえをぼんやりと見ていた。

「ねぇ、さっき何を見てたの?」

 突然夏美が私にそう尋ねた。

「え?何って・・・」
「いや、なんかぼんやり男子のバレー眺めてたからさぁ、誰か気になる人のでもいるのかな、と思って」
「・・・やっぱり、そんな風に見えた?」
「うん、まあ、かなり」
「・・・でも、どうなのかな、本当のところ」
「何がよ?」
「いや、正直自分でもよくわからなくて」

 これが教室で、紗江や雪穂と話しているときだったなら、きっと否定していたと思う。紗江も雪穂もいい奴ではあるが、そういう類のゴシップに飢えているから、少しでもそんな素振りを見せようものなら、「どこのどいつだ」と根掘り葉掘り、私が疲れ果てて口が利けなくなるまで質問攻めにするだろう。その点、夏美は付き合っていてとても楽な相手だった。「そういうこともあるかな」と呟いて、それ以上は尋ねてこようとはしなかった。

 トスが上がって、彼のスパイクが相手コートに見事に決まった。私はそっと息を吐き出して、吸い込まれてゆきそうになる視線を無理やり彼から引き剥がした。眺めないようにするのは意外なくらい簡単だけど、次に彼の姿を目にしたときにものすごい力で私は彼に縛られる。それは、とても苦しいことのはずなのに、一度それに支配されてしまったら、容易には抜け出すことなど、できなかった。

「ねぇ、夏美は、誰か気になる人とか、いないの?」

 男子のバレーを眺めて、一瞬なぜか切なそうに表情をゆがめた夏美の横顔に、私はそんな言葉をぶつけた。

「うん、いるよ。多分」
「多分?」
「そう、多分。沙由と同じだよ。正直自分でもよくわかんない」

 体育館に響き渡る、笛の音。それが試合終了に合図だったようで、それまではある程度引き締まっていた男子達の表情も一気に緩んだ。結局、十点以上の点差をつけて、試合は彼のチームが勝利を収めた。

「相手はね、幼馴染」

 さっきまでとは違うチームがコートに入って、また試合が始まった。

「・・・そうなんだ」
「そう。・・・多分、近くにいすぎたんだと思う。一緒にいる時間が長すぎたから、これが本当に私の感情なのか、それとも誰か別の人の感情が混ざりこんでいるのか、わかんなくなって」
「別の誰か、って?」
「田辺祥子」

 夏美は、彼女と同じクラスの少女の名を挙げた。可愛くて、目立つ子だし、私も何度か話をしたことはあったが、そういう男女の噂話に限りなく疎い私には、彼女がどうして田辺祥子の名を上げたのか、わからなかった。

「苦しいんだ」
 
 夏美は呟いた。私はそんな夏美の横顔を見ていたら、なんとなく少し、不安になった。

「・・・ねぇ、夏美。私、そういう話には全然強くないよ。相槌だって、上手く打てないし」
 
 私が思わずそういうと、夏美は目を丸くして、それからあっさりとした笑顔を浮かべた。

「やっぱり、沙由はおもしろい子だね」

 おもしろい子というところには、正直あまりぴんと来なかったが、夏美という少女に自分がどんな風に思われているのかがわかった気がして、それが少しおかしかった。

「別に、相槌なんて打たなくていいから、ちょっとだけ話しても、いいかな?・・・苦しいの。なんか、いろいろと。一緒にいた時間が長すぎて、何をやっても何を言っても、素直になんかなれないから、言わなくてもいいことも言ってしまうし、このまま一緒にいれば、なんか取り返しのつかないことをしてしまいそうで、ちょっと恐くて」

 夏美は、それまで溜め込んでいたものを少しずつ吐き出していくかのように、ポツリポツリとそう語った。私はただ黙って、夏美の言った「取り返しのつかないこと」について考えていた。それは、私がさっきまで感じていた取り返しのつかないことに対する不安なんかとは、やはり根本的に違うように感じた。そもそも、取り返しのつかないことなんて、あまりにも漠然としすぎた言葉だから、考えたって仕方ないのに、どうして私達はこうも不安になってしまうのだろう、と私は思った。

「多分、大丈夫だよ」

 だから、やすっぽい慰めの言葉で終わることを承知してても、そんな言葉しかいえなかった。

「多分?」
「・・・うん。取り返しのつかないことなんて、そうそう転がってるものじゃないと思うし」

 私が言うと、夏美はまじまじと私を見つめて、それからおかしそうにあははと笑い声を上げた。

「やっぱり沙由って、おもしろいよね」
「え、そう?」
「うん、そうだよ。相槌打つのの下手とか言って、別にそんなことないじゃない」

 それは正直にけっこう嬉しい言葉だったので、夏美に釣られてちょこっと笑った。たまには授業をサボってこういう風におしゃべりするのも悪くないか、と思った。

「でもね、私にだってあるんだよ。そういう風な気持ちになることが」
「え?」
「だから、取り返しのつかない、こと」

 今度は彼のチームが審判だった。私は彼じゃない別の誰かを目で追ったけど、すぐに自分に嘘をついているかのように感じて、やめた。

「ふーん、そうなんだ」
「ねぇ、夏美。今まで話したこともなくて、これからも話せそうにない男の子に気持ちを伝えるのって、どうすればできると思う?」
「なにそれ、なぞなぞ?」
「いや、なぞなぞじゃなくて、ただのたとえ話だけど」
「ふーん・・・」

 夏美が何かを考え込むように黙り込んだから、二人の間の会話がふっと途切れた。ドッヂボールの決着はまだつかない。両チームとも決定的な戦力にかけるからか戦況はさっきからずっと膠着したままだ。それに女子は男子と比べると随分人数も多いから、きっとこのままチャイムがなるまで決着がつくこともないだろう、と安心して足をぶらぶらさせている。

「素直になるしか、ないんじゃないかな」

 夏美が言った。それは先程の私の問いに対する答えのつもりだったのだろう。私は、そっと夏美の表情を盗み見た。彼女は相変わらず男子生徒たちのバレーボールをつまらなさそうに目で追っていて、私にはそれが、夏美がわざとそうしているようにも、感じられた。素直になれ、か。でも、素直にならないといけないのは、私なんかよりもむしろ、夏美のほうじゃないのかな、と私は思った。

 




 刻々と迫る冬の気配に、私の前に広がっていく「未来」かそれに似た何かが次第に浸食されていき、気配だけで、それがどうにもならない深い暗闇に閉ざされていくのを、私は感じた。そのことに焦燥感を抱きながらも、段段と灰の色を帯びていく季節にどっぷりと浸ってしまっていて、空回りばかりする感情を押し殺し、何とかそのくらい淵から抜け出そうと手探りしているような、そんな日常を繰り返している。

 塾を通して受けた外部模試の結果があまりにも凄惨で、そのことを親に告げる勇気も出ないまま、自分の机の中にしまいこんだ。半分以上が斜線で消されたカレンダーの今日の日付に、赤でもう一本線を加える。後三日で十月も終わるというのに、机の上に散らばったマンガ本や色ペンなんかを見ていると、体の隅々から寄せ集めたせっかくのやる気も見事にそがれて、私は電気を消して部屋を出た。

 誰もいない廊下を通って玄関から外に出る。リビングの壁時計が六時を指して、日の沈んだ住宅街の中を自転車で走り抜けていった。勉強もせずに、こんな時間に家を抜け出していることが母に知れたら、またぶつぶつ小言を言われるに決まっていたが、今日は会社の飲み会で帰りが遅くなることを知っていたから、何の心配もせずに私は自転車をこいでいる。

 羽須美さんの家に行こうかと思って、そちらの方向に自転車を走らせていたけれど、途中で気が変わってUターンした。少し意固地になっていることに気付いて、のろのろと流れる景色の中で、惰性でペダルを踏み続ける自分自身に苛立ちを覚えた。適当に目に入った書店に入り、使いもしない参考書を棚から引っ張り出しては戻し、また引っ張り出してはもう一度戻す、という作業を繰り返しては、本当の自分ってなんだろう、なんて冗談以外では口にできないことを深く考え込んでしまっていた。

 母がいつの間にか教育ママとしての気質を発揮させ、私の行動にあれこれと文句を言い、干渉しだしたのは、羽須美さんによるところが大きい、と私は思っていた。羽須美さんが学区内の有名進学公立高校に入学して、見事偏差値の高い大学へ滑り込んだことがよっぽど彼女を刺激したようで、もしかしたら私の娘も、なんてくだらない妄想を抱いてしまい、私にも「同じ高校を受験しろ」と強制するのだ。特に悪いというわけではないが、飛びぬけたところのない私の成績表とにらみ合って、ここはこうだとかあれがどうだとかうるさく言う母のせいで、どこかその辺の、自分の実力に見合った私立高校にでも行こうと思っていた私のモチベーションは下がりに下がった。羽須美さんみたいになれるわけがないことは分かりきったことだというのに、母から押し付けられる無理難題にぶつかる度に、いつも羽須美さんと比べられているような感じがして、悲しいよりも苦しいよりも、ずっと切ない気持ちを味わってきた。

 参考書ばかりが並んだ棚にいつまでも突っ立っていたって、いかにも受験生的な気分に白けるだけだということに気付き、数分店内をうろついた後、何も買わずに店を出た。できるだけ明るい場所を選んで通って、駅前のレンタルショップまで自転車で走った。店に入ると、店内には最近はやりの歌手の曲が流れていて、そういえば暫くCDを聞いていなかったことを思い出した。

 店の隅のCDのコーナーのランキングには、上位に上がれば上がるほど、私の知らないグループ名或いは歌手名がランクインしていて、いつの間にかこんなにも流行から取り残されていたことを知った。CDを聞くかわりに昔集めたマンガ本を片端から掘り出しては読み進め、自堕落な生活の中にどこまでも落ちていけそうに感じていた、秋の終わり。そんな風な日常は、無常にも前に進むことしか知らないようで、このまま流されるまま漂っているほうが楽だろう、と思い始めていた。その後、どこにたどり着くかまでは知らないけれど。

 そんなことを考えながら、半年くらい前までよく聞いていたアーティストの曲が三位にランクインしているのを目にし、借りる気もしないのに、なんとなくといった感じで手にとった。

 その時、近くで「あれ」という声が聞こえたような気がして、ふと声のしたほうに視線を向けた。

 私は驚いた。私服姿の彼がそこにいたのだ。

 一瞬そこにいるのが誰なのかわからなかった。彼の私服姿を見るのが初めてだったからわからなかったのか、それとも彼の背中ばかり見ていたからかもしれない、と私は思った。実際の彼を目の前にして、私はどんな顔をしてよいものか咄嗟にはわからず、さぞかし間抜けでおかしな表情をしていたのだろう。

「ええ、と、立石さん?」

 彼が私の苗字を呼んで、私は小さく頷いた。名前、覚えていてくれたんだ、と一瞬嬉しく思ったけれど、すぐに当たり前か、と思い直した。いくら話をしたことがないと言ったってもう半年以上も同じ教室で授業を受け続けているのだから、名前なんて覚えていて当然なのだ。

「珍しいね、こんなところで会うなんて」
「うん。吉村君は・・・CDか何か、借りに来たの?」

 話しかけられたからには沈黙はまずいだろう、と思い何か話題はないだろうか、と探してみたが、それを見つけるには私はあまりにも彼のことを知らなかった。取り敢えず当たり障りのないことを尋ね、私はその場をごまかした。

「いや、ちょっと気分転換にでも、って思っただけだよ」

 「あたしも」と口を小さく動かしては見たけれど、彼には聞こえなかったみたいだった。私は多分明らかに緊張していたのだと思う。それを意識し始めたとたん、今まで何も感じていなかったのが嘘のように、苦しいくらいに胸の鼓動が高くなった。顔が馬鹿みたいに赤くなっていくような気がして、彼にそれを悟られてしまうのもいやで、ずっと視線を逸らしたまま、彼の服の茶色いボタンばかりを、見つめていた。

「立石さんは?」
「え、あたしは・・・。あたしも気分転換」
「ふうん、そうなんだ」

 彼が呟く。わたしはさっきのCDをまだもっていたままだということに気付いて、慌ててもとの棚に戻した、それを見ていた彼が、

「サザンとか、聞くんだ」
「え?あ・・・うん」

 けっこう好きだよ、サザンオールスターズ。そう言おうと思ったけれど、カチカチになってしまったまま、声が出なかった。情けない、と私は思った。

 その時、彼のポケットからケイタイの着メロが聞こえてきて、「ちょっとごめん」といって彼はケイタイを耳に当てた。CDも元に戻して、もうすることのなくなった私は、ずっと近くにいて彼に盗み聞きをしていると思われてもいやだと思い、そっと彼のそばを離れた。店を出るときに振り返ってみると、私の視線に気付いた彼が、小さく手を振っていた。私は驚いて、ぎこちなくだが手を振り返す。「ばいばい」と心の中で呟いて、自動扉をくぐって外に出た。

 腕にはめた時計を見ると、もうすぐ七時になるところだった。家に帰って、弟のごはんをつくってあげないと、と思い強くペダルを踏み込むと、どこからが吹いてきた秋の風が、少し汗ばんでいた首筋に心地よく感じた。

by sinsekaiheto | 2007-12-07 13:33